zencro’s diary

乱歩奇譚SS

牛乳・雨音

牛乳

目覚ましが鳴るより早く目覚めた。
ふとんから出た顔や腕が冷えていて、急いでふとんの中へ引っ込める。顔までうずめると暗くて柔らかくて息苦しくて、先程まで見ていた夢にまた引きずり込まれそうな気がする。ゾッとするような、でも抜け出したくないような、懐かしい泥沼のような夢だった。
目を閉じるとすぐに寝てしまいそうだから、あくびをして肺に冷気を送り込む。そしたら、さっきまで見ていた夢が遠ざかって、しらけたうすら寒い気分が残った。
カガミ、と言いかけて、いま彼は居ないんだと思い出す。呼び掛けるはずだった声が幽霊のように虚しく朝の空気にとけていくのを見送り、ごそごそと布団から這い出した。

冷蔵庫の扉を開けて「うーん」と唸り、牛乳パックだけ取り出す。マグカップに半分だけ注いで口につけようとして思い直し、レンジに入れた。ブーンというレンジの作動音を聞きながら冷蔵庫の扉に貼ったカレンダーを見る。
「もう12月かぁ」

先月の祝日、誕生日を祝ってもらったその席でカガミはこの部屋を出ると言い出した。もう部屋も決めて引っ越しの手筈も整えたと聞いて、相談もされず、そんな気配も察しなかったおれは、置いてけぼりを食らった子供のように拗ねて、ただ「ふうん」と答えただけだった。思い直してくれればいいのに、トラブルが起こっておじゃんになればいいのに、などと暗く呪っていたが、とんとん拍子にコトは運び、万事つつがなく引っ越しは完了。あいつ、デキる優等生だったもんなぁ。
そしてあっという間のお別れの儀。前の晩は部屋で酒飲んで、懐かしんだり笑ったり。酔いも手伝ってお互い機嫌よく和やかに、それなり良い感じの歓送会だった。
「たまに、電話しても良いですか?」
翌朝、出立の際カガミが問う。
「勿論だよー、いつでもかけてよ」
つとめて明るくのんびりと答える。
「ナカムラさんからも電話をください」
「いやー、カガミにいつ電話していいかわからないしなー。忙しい最中にかけちゃうと迷惑だろ?おれからはガマンしとくよ」
それを聞いて、カガミは何か言いたそうに表情を歪め、荷物を置く。
「ナカムラさん」

「…すみません」
背中に回した腕を解いて、カガミはそう呟いた。
そして、カガミは再び荷物を持ち背中を向けて歩み去った。
俯いたまま、こっちを見ないまま。

レンジで温め終了のアラーム音が鳴り続けているのに気づき、のろのろとマグカップを取り出し口を付けたが、
「アチッ」
慌てて口元を手で押さえる。

あの時、心臓が止まるかと思った。

 

雨音

季節がひと回り巡って、マフラー無しでは首筋が寒くて仕方なくなった頃カガミは戻ってきた。

仕事から帰った夜遅く、ドアのそばにカガミが立っていた。両脇に二・三泊の旅行に行く位のカバンをひとつずつ置いて。
ナカムラの足音に気付き、俯いていた顔を上げる。
どうしたんだろう、何も連絡なかったよな、などという考えが頭に湧くのをよそに、心中でははしたないほど期待がぶわぶわ膨れている。
「帰ってきたんだ」
「はい」
「何かあったの?」
「すみません、何も連絡なしにいきなり」
「…とりあえず、中はいろう」
「はい」

いつもの玄関が狭い。靴、何処にどうやって脱いでたっけ?
まずコート脱いで、暖房入れて、そう、えもんがけどこしまったっけ?
ひとりでいる間は普通に動けていたことが、急に覚束なくなっている。
「ナカムラさん」
「あ、そうだ荷物とりあえずその辺においてコタツにでもあたってな。お茶でも…あ、コーヒーのがいいかな」
「ナカムラさん」
「あ、腹減ってない?そうだよな、待ってなーなんか作るからさ」
「あの、大丈夫です」
「そう?とりあえず寒かったし牛乳あっためような…カップもひとつ、どこだっけー」
「ナカムラさん」
「あ、ごめん。何?」振り向いた先に、カガミの笑顔があった。
「いえ、ナカムラさんだぁ、と思って」嬉しそうな声に、ナカムラもつられて笑う。
「…はは、なんだよそれ」
そして笑って初めて、かなり緊張していたことに気付く。
その後あっさり見つかったカップに、あたためた牛乳を手鍋から注いだ。
ひとつには砂糖を入れてコタツの上に置く。
「おかえり」

冷え込みでそのまま雪になるかと思った雨は、相変わらずざあざあと降り続いている。
あたためた牛乳を飲むと、カガミはすとんと眠ってしまった。
コタツに突っ伏したカガミに自分の半纏をかけてやり、しまいっぱなしだった二枚目の布団を乾燥機であたためる。
ブオオオと機械音を聞きながら、変わらずふわふわな癖のある髪に目をやる。

この一年、たまに近況は伝え合っていたものの顔を合わせる事は無かった。
ハシバ財閥の下で昼夜逆転の生活をするカガミは勿論、ナカムラも休日返上で駆り出される日々が続き、お互い忙しかったせいもある。
でも何より、ナカムラの心の底にはカガミに対する遠慮があった。
出所後、新たな職を得たカガミを邪魔したくなかった。12も年下の彼はまだ若く、新たな出会いもあるだろうし。

プシューと音がして乾燥機が停止した。
半纏を掛けた肩をぽんぽんたたいて、布団に入って寝るよう促すと、目がほとんど開かないまま、だが案外すなおにカガミは布団にもぐった。
やがて規則的な寝息が聞こえてくる。
つられたようにふわぁとナカムラはあくびをした。
(おれも寝るかぁ)

(カガミ?)
降り続ける雨音で目が覚めたのかと思った。
(そうだ、今は居るんだよな)
ざあざあという音はラジオの雑音のように遠く近く、覚醒と睡眠とが交互に訪れる。
躰を優しく包む腕の感触も、夢か現か分からぬままに。
あたたかな底無し沼に捕まったような、抗えない息苦しさと心地良さに微睡み続けた。
なんて長い雨だろう。

(ただいま、ナカムラさん)
囁きが聞こえた気がした。
まだ、朝は遠い。