zencro’s diary

乱歩奇譚SS

空気

このままでは、まずい。とカガミは思った。

自分は昔から、あまり人の体に触ったりすることは無かった。たった一人の肉親だったトキコに対しても、せいぜい頭をなでるぐらいだったと思う。
それが、出所後ナカムラさんに厄介になってしばらくたった最近では、彼が視界に入ると無性に触りたくて仕方がなくなる。
ナカムラさん自身はけっこう人懐こい方だと思うが、ふだんは自分の身をかかえる例のポーズで、滅多に他人に触る事が無い。だから、自分の変化はナカムラさんに感化された訳では無い筈だ。
本当に最近の自分はおかしい。
自分を呼ぶ声に心臓が止まりそうになり、振り返り目にした彼の眼差しにぞくりと震え、その唇が動く様に思わず唾を飲みこむ。
この傾向を自覚してからは常に意識して自分をおさえようとしているのだが、ふとした事でナカムラさんの腕に触れただけで、自分の心の奥に潜む下心から触れたのではないかと思い暗澹となる。

「ナカムラさん、俺ここを出て、一人で暮らそうと思います。お世話になってばかりで、その万分の一も恩に報いてないと思いますが、」
ある日、思い切って切り出した。が、
「ちょっとちょっと、そりゃ性急に過ぎるんでない?もっとゆったり構えてさぁ、焦んなくってもさ、カガミはまだ若いんだしー」
と言われたのをいいことに、いまだズルズルここに居続けている。

でもこれ以上ここにいてはダメなんです。自分を抑えていられる自信が、もう無いんです。


「…その油あげがどうかしたの?」

「はっ」
いけない、また食事を作りながら考えてた。
「はは、アブナイなぁ~、包丁持ったまま微動だにしないで無表情のカガミくん」
「…ナカムラさん、一寸よろしいでしょうか?」

俺にだって、彼を好きになってしまったせいだという事くらい分かってる。でも、今まで俺を見放すことなく後輩として親身に世話してくれた恩にあだで報いることなど断じてしてはならない。
もっともらしい言い訳を並べ立て、穏便に言いくるめる事ができたらいいのだが、自分の妹にもすぐ嘘を見透かされてしまっていたような俺にそんな芸当ができるわけもなく、真っ正直にナカムラさんに言う事にした。
「実は、ナカムラさんを好きになりました」
「へ?そりゃあ、ありがと」
「いえ、そういった『好き』ではなく」
「つっても、今までは好きじゃなかったんか~、こりゃあ地味にショックだな~」
「いやあの」
「でも今はすきなんだよね、ならまあいっか~はははは」
「ナカムラさん!」
「は、はい?」
「ですから、俺は、あなたの事を、」
「あ。…そういう『好き』なのね」
「はい」
「あーそうかぁー、んー成程」
「俺はいつナカムラさんの意に染まぬ行動をとってしまうかわかりません。ですから、お世話になりっぱなしで未だ何の恩返しもできてなくて辛いのですが、非常事態ですのでここを出て行きます」
「…そうかぁ」
「…今まで、ありがとうございました」

出発の日は、ひどい雨だった。
「ではこれで。本当に、お世話になりました」
「うん。じゃ、頑張って。…困った事あったら、連絡してな」
「はい、ありがとうございます」
「…たまに、こっちから電話していい?」
「はい」
「気が向いたらさ、よかったら、カガミからも電話くれよ」
「はい…」
カガミは、ナカムラの顔を見ていられなくなり目をそらすのを誤魔化すように深々と頭を下げて言った。
「さようなら」
目を合わさぬようそのままくるりと回れ右して、アパートの敷地から道路へ足を大きく踏み出した。そして足早に、振り切る様に大股で歩く。

ナカムラは、どんどん小さくなっていくカガミの背を目で追い続けた。
「カガミー」
思わずナカムラの口をついて出る。
そしたら、『はい、ナカムラさん』って、いつも必ず返ってきたのに。
でも、もう声が届く距離じゃない。

「カガミ、ちょっとカガミ!」
気付いたら名を叫びながら走り出していた。
どしゃ降りの雨の中、水しぶきをあげながら走る。履き古しのスニーカーはあっという間にグズグズになった。
まるで、自分のまわりから空気が根こそぎもがれていくみたいだ。息ができない。カガミが全部持ってっちゃったせい?…待って死んじゃう、雨で窒息しそう、苦しい、くるしい。

『行かないで』

雨音の合間を縫って次第に大きくなる呼び声に、カガミが足を止め振り向くと、ものすごい形相のナカムラがぐんぐん追い縋って来る。ギョッとした顔で固まるカガミの両肩にがっしとナカムラの両手が掴みかかる。
「ひゃー、ひぃー、つかまえた、はぁー、」
この細身のどこにと思うほどの力で、カガミの肩を掴んだまま、あぜんとして言葉が出ないカガミを前にナカムラは乱れた息を懸命に整える。
「やっぱ一緒に居よう、居てよ、」
「…でも、ナカムラさん、俺は」
視線をそらせようとするカガミの首根っこにしがみつき、辺り構わずナカムラは怒鳴った。「いいよ、すきでも恋でもケッコンでも何でもいいから、一緒にいてくれ、頼むよ、一緒に居よう」
「…ケッコン?」
呆然とした表情から次第に覚醒して、カガミは自分にぶら下るようにしがみつくナカムラの体を抱き締めた。
さしていた筈の傘は、とうに強風に吹き飛ばされ見当たらない。
だが、暴力的に体を打ち付けて痛いほどだった雨粒も、今は火照った体に心地好いほどだった。


なんにせよ、互いが居なくては、息する事さえ容易ではありません。