zencro’s diary

乱歩奇譚SSと雑記

痕・風邪


「はぁー、風呂っていいよねえー。最近はめんどくさくてシャワーばっかだったけどさ、たまには湯船につからないと体がほぐれなくなっちゃうよなあ」
湯気のこもる浴室で、誰に言うともなく大きな声で独り言を言う。
「風呂は命の洗濯ってねえー」
湯船に寝そべるようにほぼあおむけになり、目をつむった。わ~、寝ちゃいそう。
冷蔵庫の冷えたビールを頭に思い浮かべながら、首筋をぼりぼりと掻く。と、
「いってて!」
…ったああ、いけね掻いちゃったよーもうすぐ元に戻りそうだったのになあ。いい年してガキみたいに蚊に喰われて掻き壊したみたいじゃんかー。
やれやれと、湯船から身を起こす。身をのりだして、洗い場の鏡の曇りを手で拭ってのぞき込むと、くたびれたおっさんが眉を八の字にしてこっちを見てる。
「あーあー、うかつに銭湯にも行けやしないよー」
今度は掻かないように首に手をやる。首の根元、左鎖骨の上あたりに赤く痕が残ってる。やっぱりさっきより濃くなってるなあ。
「はぁあ、めんどくせぇ……」
湯船のへりに座ってぼんやりと右手の鏡に映る自分を眺める。
「なんなんだよなー、まったく」
『ナカムラさん』
そう呼ぶあいつの形の良い唇を思い出す。
ギリでワイシャツに隠れるけどさ、まあ、つける事自体どうかと思うけどさ……噛むなよな、もう。
うっかり冷えそうになったので慌てて湯船に再びつかると、地味に沁みた。


風邪
 
「んっく……ふっ……う」
ひりついた喉に、生温かく甘い液体がとろりと流れ込む。
「……なに、これ」
顔を少し離して彼は微笑んだ。
「紅茶に檸檬とはちみつを多めに入れて、冷ましたものです。でも、まだすこし熱いと思うので。」
そしてまた自分の口に紅茶を含んでは、俺の口へと注ぎ込む。

どうも風邪をひいたようだった。
何年かぶりで久しぶりだったせいか風邪だという自覚もなく、だるくてのどが痛いなあくらいに思って数日放置していたが、じきどうにもしんどくなって仮眠室で休んでいたところへ彼がやってきて、先ほど家まで送ってくれたところだった。
「台所、借ります」と言ってカチャカチャやっているのをぼうっとした頭で聴きながら、横になっているうちにいつの間にか眠っていたらしい。
何やらよくわからない夢の後ふと目が覚めてみると彼はまだ傍らに居た。
俺が目を覚ましたことに気づくと、それまで見ていた持ち帰ったらしい資料から目を上げた。
「眠り浅いですね、まだあれから20分もたってませんよ。あ、ちょっと待っててください」
と台所から持ってきたのが先ほどの冷めた紅茶だ。

「不調法で気の利いたもの作れなくてすみません。ただこれは昔、のどが痛くてつらい時に母親が作ってくれてとても美味かったものですから、ナカムラさんにもどうかなと思って。」
「美味いよ、ありがとう。蜂蜜と檸檬は全く王道の組み合わせだねえ。」
「では、もう少し飲みますか」
「ああ……あ、いや、一人で飲めるから、」というのも構わず再び口移しに飲まされた。
「こんな機会を逃したくないので。」
そしてまた口に含んで口付ける。
「馬鹿だなあ、うつるよ?」と苦笑いする。
「うつせば治りますよ。」と優しく微笑む。

職場で彼と組むようになって、ふた月ほど経過していた。
若く仕事熱心で、優秀で、何を教えても乾いた砂に水が沁み込むようにどんどん吸収する期待の新人だ。
逸材ってのはいるもんだよなあ。国家一種をストレートで合格して配属されてきた彼は、やがて俺も追い越して偉くなることが確実だ。そんな前途有望な奴が、どういうわけかこの俺を好きだと言ってきた。
のらりくらりとはぐらかしてきたつもりだったんだが、まあ。力じゃ敵わないんだよね。

ああ、俺ってどーしてこうなんだろうな。
信頼しきった眼で、でも有無を言わさぬ強引さで向かってくる奴って駄目なんだ昔っから。
あいつも、そうだったな。自分でもわかるんだ、じきに降伏しちまうのが。
ああ、逃げちまいたいなあ。俺はさ、つかず離れず和やかにへらへらしてるのが好きなんだよ。
親密になんか、なりたくないんだよなぁ。めんどくさい。

……ほら、こうなるだろ。
飲みものなんかそっちのけで、彼の口付けは首筋へ移動している。
「俺、いちおう病人だよ?」
「すみません、我慢できません。」

ごめん、俺ダメなんだよ。他の奴にはもう本気になれないんだ。

彼の手の感触は、こうじゃなかった。
深く口付けるときの、耳を食む時の、顔の寄せ方もこうじゃなかった。
他の奴に抱かれる度に、昂る体の熱とは裏腹に、頭の隅から冷ややかに検証している自分がいる。
彼の抱き方は違う、憶えてる、まだ上書きされてない、大丈夫、
抱かれて欲を消化しながら何度も自分に言い訳して安堵する。

**

「や、調子どう?」
もう、何度目になるんだろう。
間を隔てる透明な壁に手を当てて、カガミの輪郭をなぞる。

なぁ、この体にまだ余韻が残っているうちに戻って来てよ。
俺、多分そろそろ限界なんだ。

広告を非表示にする