zencro’s diary

乱歩奇譚SSと雑記

出口


[1]
ここに来てからもう何日経ったろう。
清潔に生存する衣食に足りてその他は一切無駄のない空間で、時間の感覚はどんどん削られていった。毎日が同じことの繰り返し。時折ナカムラさんが訪れて、それも穏やかな日常に組み込まれる。波風立てず立たされず、柔らかな拘束服に包まれたような怠惰の日々、私という意識もうすぼんやりと輪郭を喪いかけていた。
トキコの非道い最後の姿を思い出せば、内臓から喉元へ赤黒く濁ったヘドロのような感情がせり上がり爆発する感覚を思い出す。お前等の一切の努力は無駄なのだとうそぶく犯罪者たちを思い出せば、血肉が無数の凶器となり毛穴から奴らめがけ噴出するような感覚も思い出す。なのに、真綿に包まれた日常を送るうちにそんな感情もどこか遠くの別の誰かの出来事のように思えてくる。テレビの向こう側に映し出された、実在するかもしれないが我が身とは切り離された感覚。
きょうも穏やかな日が終わる。身を横たえて目を閉じる。次に目覚めたときには寝床に全細胞が溶け込んで、意識も空気に拡散し、私という痕跡は残らないのではないかと退行してゆく脳で気だるく考える。
ふと目が覚めると、めずらしくまだ夜であった。いったい何が自分を目覚めさせたのだろうと興味がわいてぐるりと見回すと、キィキィと房の扉がきしむ音を立てている。おっかなびっくり手で押すと、抵抗も無くあいた。何か制御系統が一時故障したのかと、廊下に首だけ出して辺りをうかがうが誰もいない。一切明かりは消え非常灯のみが点々と灯っている。緊急を知らせる音も、復旧を指示する喧噪も何もない。それどころか自分以外の人の気配も無い。「だれか、いませんか」一度目は控え目に、二度目からは響きわたる大声で叫んでみたが、自分の声があたりに反響するばかり。と、廊下左側にフッフッと生きものの息遣いのような音がきこえた。目をやると警察犬のような精悍な犬がとぼとぼと廊下を歩んでいる。つづいてちゃりちゃりという音とともに犬の曳き綱の金具が引きずられているのも見えた。引く人間もいない、これは異常過ぎる。ゆっくりと廊下に足を踏み出し犬を刺激しないように気をつけながら左へ向かう。犬は何かを引きずっていた、一つは先ほども見えた引き綱であり、もう一つはその口にくわえた棒きれのようなもの。暗がりに近づいて目を凝らせば、それは袖を通した人間の右腕であった。

[2]
千切れた右腕を視認した途端、強い血の匂いが辺りに満ちている事に気づいた。混乱する頭と早まる鼓動を抑えながら、犬が歩いてきた方へ歩を進める。突き当たり、房の扉と同様にキィキィなる扉を開けると、そこには見慣れた当直の刑務官がどこから出血したかもわからぬほど血塗れになって横臥しており、絶命していた。その右肩から先は消失している。傍らのデスク上に電話があった。受話器をとったが通信音がしない。ふと見るとコードが切られていた。倒れた刑務官のポケットや椅子に引っかけられたジャケットをまさぐったが、携帯電話や通信できる機器は奪われたのか、一切無かった。この建物の構造はよく知らない。収監されて通されてきた道しかわからない。当直室の壁などを見ても、案内図のようなものは一切なかった。さあどうしようか。当直の腰には鍵束がつけられている。それらは恐らく扉用ではなく一時的な物入れなどに使うための簡易な鍵であって、今の施錠はカードキーや暗証番号、指紋認証などではなかろうか?それでもないよりはマシと、鍵束を外しなるべく音を立てないようそばにあったハンカチでくるみ持ち出した。憶えのある道を通りその間も周囲を見合わすがやはりひと気は無い。自分がこうして動き回っていることで、この状況を作り上げた下手人に利してしまっているのではないかと危ぶまれたが、じっとしている方が良いとは到底思えない。先を急ぐ自分を阻むものは何も現れず、なにがしかのキーが必要と思われる扉は既に開かれていて何かに操られ導かれているという思いが次第に強まり、遂に戸外へ出てそれでも警報ひとつならないと分かった時、それは確信に至った。

[3]
憶えがある、これは以前見た映画のストーリーだ。
…私は実はまだ夢を見ているのではないか、私の体はまだあの殺風景な部屋の寝台の上に横たわっているのではないのか。単調な生活をしているうちに夢と現実の境が分からなくなってしまったのではないか。いやそんな馬鹿な、部屋を出たあの廊下の血臭、あの肩から腕を引き千切られた骸、あれが夢幻である筈が無いではないか!いやもしや、私が二十面相に扮した時の残虐極まりない行為による光景が、今目の前に蘇っているのか。あの罪深い行いの記憶を、己のものとして実感できなくなりつつある私に対する、これは罰なのか?そして同時に、先ほどから頭の隅で、或るひとつの解が居座っていた。いや、けれどもまさか。
その考えを頑なに打ち消しながら、何か動くものが無いか暗い中周囲を見回す。すると門の入り口の小屋に明かりが灯っているのが見える。夜間もあそこには門衛が常駐しているのだろう。近づくと果たしてその小屋の中、窮屈に置かれたデスクに座る人影があった。目覚めて以来、ようやく見る生きた人間だ。その人物が顔を上げた。「よっ、おはよ。」ああ、やはり、という思いが確かにあった。けれど、なぜあなたなのですか、
「ナカムラさん」
暗闇へ堕ちこんでゆく感覚とともに諒解した、これは悪夢だが現実だ。でも、「どうして、あなたが」 ああ、でも恐らくは私のせいなのでしょう、こんなに一本道で獄から抜け出すよう仕向けるなんて、それも一切の障害を排除して、施錠という施錠をすべて解除して、ああいったいどれほどの犠牲がはらわれたのだろう、どれほどの取り返しのつかない罪を、このひとは重ねてしまったのだろう。
「わりと早かったねー、あはぁ、鍵束も持ってきたね。あの映画でもそうしてたよね、きみも憶えててくれた?嬉しいなあー」...ああ、なんて無邪気な笑顔なんだろう。「一緒に観たもんねえ、俺んちでさあ。なぁ、カガミ」 ええ、私が着任してそれほど時が経過していない頃、そう、まだあなたにちゃん付けで呼ばれていた頃。まだ私が生まれる前、30年も前の映画をあなたの部屋で観ましたよね。懐かしいです、その話をまたあなたとしたかった、そのあとも色々な映画を見ましたね、教えてくださいましたね、映画の事を話すあなたはとても楽しそうで、楽しそうなあなたを見ながら私もとても楽しくて、もっと話をしたかったあなたと、こんな状況では無い時に。
「おまえさ、きょう刑執行なんだってさ」
「な、」

[4]
「おまえ、だんだんさ、現実の感覚が薄れてきてただろ。会うたびにおまえが、された事もした事も他人事のような顔するようになってきてさ。冗談じゃあない、おまえが収監されてからは俺が毎日おまえの痕をさらってきていたんだよ。二十面相追っかけのアケチ君の言うままにさ。おまえが抱いてた無念や怨念、俺が昔持ってたそれと似た何か、一緒に走り回ってたあの頃におまえが俺にぶつけてきたあれやこれが、すっかり俺の中で混ざって、持て余すどころかそいつらもすっかり俺になっちまったんだよ。俺はいちおうは踏ん張ってきたつもりだよ。でもさ、どこにも揺らぐ事の無い盤石な土台なんて無いんだよ。でさ、宮付きの情報網ってすげえンだよ、おまえの刑執行に大臣が判を押した事までだだ漏れてくるんだよ。もうやんなっちゃうよね、まるで俺のぐらつきにつけ込んでくるみたいにこういう情報って入ってくるんだもんねぇ。ああ、探偵さん達は知らないし巻き込んでないから安心して。俺がズルして覗き見してただけだから。俺も知らない方が良かったかもな、そんなハッカーまがいな事なんてしなきゃ良かったかもなあ、でもまあいいかぁ、執行されたらもう死体としか会えなくなっちまうもんなあ。ごめんなカガミ。このまま、ぼんやりとした穏やかな心持ちのままで、静かに執行の日を迎えた方がお前にとっては幸せだったのかもしれないよな。でもさ、執行されるって聞いちまった俺はもう我慢できなかったんだよ。ごめんな、おまえを閉じ込めてくれるあの部屋にはもう戻れないよ。戻してやらないよ。一緒に行こうよカガミ。おまえの”あこがれの先輩”ナカムラさんのお願い、きいてほしいなあ。...おっと、もう時間切れだ。最後にもいちど、カガミくんの意思を聞いてあげる。で、どうする?一緒に来る?それとも俺を排除して、ぜんぶ止めにする?」
垂れた頭を振って、私は思った。あなたを拒むことなんて、この私に出来る訳が無い。かつて私の為に道を示し、私の為に奔走し、私の為に泥をかぶり、私の元へ何度も通ってくれたあなたを、そして今、私の為にどんなに拭っても拭いきれないほどの罪にその手を浸してしまったあなたを。いや、ともに居たいと願い続けていたのは私の方です。私があなたの為にできる事があるなら、何でもする。今の私を縛っているのは、法でも正義でもない、私を見るあなたの眼だけが、私の行動全てを決定するんです。
ナカムラさんにその事を告げると、彼も頭を垂れて何事か小さくつぶやき、「ん、じゃあ、行こうか。」と言ってくれた。

手に入れた、ようやく彼を手に入れた。
これで彼は永劫おれのものだ。