zencro’s diary

乱歩奇譚SS


海なんて嫌いだった。
顔にまとわりつくベタベタした粘度のある潮風や足指の間にいやらしく潜り込む浜辺の砂、そこらにはびこったフナ虫や蠢く小蟹、未練たらしく地べたや岩に貼り付いた海藻エトセトラエトセトラ。だが何より嫌いなのはどこまでも果てしがない海の沖の風景だ。なぜ皆はこれを解放感などと呼ぶんだろう。俺には空という巨大な蓋と海という果てのない断崖に永劫閉じ込められるような閉塞感しか感じない。
子供の頃連れられて来た海水浴場で、俺はよく迷子になった。《ほうら海だよ、嬉しいだろう?》と追い立てられて仕方なく人波をかいくぐり波ぎわでひとりちゃぷちゃぷやっていると、人の騒音に紛れて最初は気付かなかった波音がざざんざざんと聞こえてくる。何やら急に心細くなって後ろを振り返ると、すぐそこにいる筈だった家族の姿が見えない。人の群れでごった返す浜辺と果てしなく続く海の間に閉じ込められた様な気がして身動きできなくなった俺は大泣きし、まあよくある話で監視員に保護されてしばらく後に家族とも合流できたわけだが、全く最初からして海に対する印象は最悪だった。その後も浅瀬に落ちていたガラスの破片で足の裏を切って大量の流血を見るわ、盆明けの海では海月に刺されまくるわ、全く何だって俺の家族はみんなあんなに海をありがたがっていたのか理解に苦しむ。年齢が上がり家族の嗜好に逆らうことをおぼえた俺は、ようやく毎度の夏の海から解放され、それからしばらくは実に快適な暑いだけの夏を過ごしていたのだった。
そのまま死ぬまで海になんぞ近づかんだろうとあの頃は思ってた。結局は就職してから同僚に引っ張られてサーフィンまでする羽目になったけどな。
「海は神さんが無自覚に泣いた涙が溜まって出来たんだ」俺が最後にこの海の家に来たとき、ここのオーナーだった叔父が言ってた。神がかつては備えていた人間っぽいところ全てが、涙となって流れて溜まったのが海なんだってさ。その海から人間は生まれ、神が忘れているあらゆる人間性をそのまま人の子は受け継いでいる。神は自分が泣いたことなど憶えていないしそもそも自覚もしていない。自分に涙があったなんて。だから人の子が苦楽に泣いてると何故お前は泣くのか?なんて聞いてくる。人の心神知らず。
「だからお前も泣く時はちゃんと自覚して泣いとけよ。知らないうちに涙が枯れて、人でなしにならないように気をつけろ」当時、同僚が殉職してついでに捕まえた奴も放免になったりして、同僚も馴染みだったここへ奴の死を報せに来た時だったな。がしがしと俺の頭をなでる、あの大きな手の感触。
その叔父もそのすぐ後で喧嘩の仲裁だか何だかで刺されて死んで、しばらくは親族が経営を引き継いだけどどうにもしんどいんでたたむ、と聞いた時、渡りに船だと思った。未だに海は嫌いだが、もう刑事なんて仕事はこりごりだったし、とすると体に馴染んだ場所は他にここくらいしか思い当らなかったからな。他の新しい場所に身を馴染ませる努力なんてもう今更する気も起きないし、生来面倒くさがり屋だからな俺は。
ざざんざざんと聞こえる波の音が、空と海に封じ込められるような目の前の風景が、子供の頃取り残されてなすすべもなく棒立ちになってたあの感覚を呼び覚ます。それが今は何とも言えず懐かしく、思い知らされる無力感がむしろ心地良くてたまらない。

ほら、お前は元々何もできない奴だったんだよ。あいつを止められなかったのも無理もないさ。



続海

「こんなとこにいたんですかナカムラさん」
懐かしい顔がやって来た。あれから数年経ってもう高校生だろうに、あいかわらず女の子みたいな顔だなあ。さすがに背も伸びて、水着も海パンだけどな。
「おー久しぶりだねえ〜トウモロコシ食ってけよー」「わーいいただきます」「500円ねー」「えーおごりじゃないんですかー」「当たり前だろーおじさんこれが商売なんだからー」と手を出してひらひらさせる。「コバヤシぃ、ナカムラさんに失礼だろ。お久しぶりです、ナカムラさん」とメガネ顔が二人ぶん千円札を財布から手渡してきた。「おやあ、ハシバのおぼっちゃんじゃないかあ。まだコバヤシ君の彼氏やってんのー?」俺の方こそ礼を失した態度を示しつつこれまたなかなか精悍な顔つきになってきた彼を麦わら帽の下からのぞく。ふーん、ちょっとあいつに似てきたかなあ。「なっな何言ってんですかゆ友人ですよ僕らは。不用意なことを言わないで下さい!」と顔を紅潮させる。「ごめんごめん、いやあでも相変わらずだねえ君ら」
「僕ら、半分アケチさんの助手としてやって来たんですよ。この界隈に自称二十面相が現れたらしくて」
やれやれ、また二十面相か。

「何やってんだ、ヒマそうだな」
なっつかしいなあ探偵さんだあ。何って、刑事引退して第二の人生に励んでんじゃん。「警視庁はともかく、宮付きの担当者が自分の意思だけで勝手に辞められるとでも思ったのか?」
「まあまあ、もう今更時効でしょ〜そんなとこ突っ立って商売の邪魔してないでさ、店の売り上げに貢献してよ。ラムネがいいかなー?」あれぇ顔が怖いよアケチ君。
「はは、缶コーヒーじゃないから怒った?止しましょうよ、探偵さん。私はもうリタイアして長いから役に立たんでしょうし、また現場に立つなんてまっぴらなんですよ。人畜無害をモットーに余生を過ごすつもりなんですから、もうほっといちゃくれませんかね?」
「お前の事情なんか知らん。利用価値があるから別に店は畳まんでいい、今から協力しろ。ブランクはすぐ取り返せ。」
「相変わらず強引だねえ。探偵さ~ん、俺はもうあんたらの顔見るのも話聞くのもやだって言ってんだよ。わかったら善良な市民の営業妨害やめてとっととあんたの好きな探偵ごっこに戻れよ、じゃあね。」