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zencro’s diary

乱歩奇譚SSと雑記

階段

この階段を降りるのも、もう何度目になるだろう。

無愛想な蛍光灯が控えめに点灯するしんとした階段室。めざす場所は地下深いところで、途中のフロアは一切無い。震災後しばらくはエレベータ使用を憚り階段を利用する者もいたが、いまはまたほとんどの署員がエレベータで昇り降りしてる。だから、今もこんなところをのんびりと降りていくのはおれくらいのものだ。まいにち自分ひとりの足音が階段室に響くのを聞きつつ粛々と降りていく。殺風景なこの階段室を、おれは結構気に入ってる。外部の喧騒から逃れ、ひんやりとした空気の中に佇んでいると、まるで塔の中を移動する修道僧のような心持ちになっていく気がする。修道僧の心持ち、なんてどんなものか、実は知らないけど。
前はここでもタバコが吸えたんだ。もちろん今は吸えない。階段昇り降りしながら吸うなんて酔狂は、俺くらいなもんだけど。薄暗い中、天井近くの窓からうっすら光が差し込む時分、昇っていく煙が綺麗だな、とか思ってた。
地下へ段々と降りていくと、意識も深く深く潜っていく気がする。

嫌いだった、赴任したての、熱意のこもった、ただまっすぐな瞳が。
何も知らないくせに。現実を知れば、あっという間に冷え切ってしまうだろうと思ってた。でも、あいつはいつも、おれの言う事を何の疑いもなく信じて。

「誰かが悲しむのを、少しでも減らしたい」という願いはずっと変わらず、呪いのようにあいつの心に染みついて。最も守るべき妹が引き千切られた後では、願いは変質して肥大化して暴走して。
一方で冷たく静かに、あいつは終わりを見定めて。
いつか探偵さんに暴かれる。それまでに少しでも多くと。
死体をつくるごと、自罰の傷を心に深く刻んでいった。完全に狂って楽になってしまわない程度に、ざくざくと。

もう、あのまっすぐな瞳はそこにない。
……それでも、まだ、彼が希望のようにおれには見えて。

ずっとわかっていたんだ、縋っていたのはおれの方だったと。
まっすぐにおれを見る瞳が眩しすぎて、どうせすぐに冷えて消える光だと何度も自分に言い聞かせて、それでもどこかで、その光は何があっても消えないと、消えてほしくないと。おれは何度もあいつのまっすぐな瞳を確認して、その眼差しが俺を向いている事を何度も確認して。初めて見た時からおれはずっと、そのまなざしを瞳の光を、全ての拠り所にしていたのだ。

「冷え切って固く凍りついた岩は、もう熱く燃えさかることはありません。いまさら柩の扉を叩いても、あなたの知っているカガミはもう死んでいますよ」

そう告げているような瞳に会いに、今日もこの階段を降りていく。いっそ、嫌らしい、汚らしいものを見るような目を向けてくれればいいのに。そんなふうにすら、もうおれを見てくれることは無い。
それでも、おれは面会の部屋へ降りていく。まるで、嫌がらせのように。

あいつが、おれを忘れないように。


※一部『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』第16話の台詞を拝借しています

ホットケーキ 続

「アケチ先輩は、どうしてカガミさんを連絡係に指名したんですか?」
「なんだ今さら」
「カガミさんて立派な刑事さんだし先輩が白羽の矢を立てるの分かりますけど」
「ふん」
「でも、ナカムラさんもいましたよね。カガミさんに決定した理由って何でしょう」
「べつにー カガミなら裏もなさそうだし扱いやすいと思っただけだ」
「ナカムラさんは?」
「あいつは胡散臭すぎるだろ」
「はぁ、なるほど」
「おいおいちょっと、ふたりともわたしへのフォロー無しぃ?ひっどいなー」
「あれ、ナカムラさんいつからそこに?」
「一応チャイム鳴らしたんだよーでも応答無いし、ノブ回したら開くし」
「ああ、チャイムなら故障中だ」
「ええ?!探偵業やってるのにそれダメなんじゃない?客帰っちゃうじゃない」
「ぼくもそう思うんですが先輩が業者呼ぶの嫌がるんですよー、ひとみしりだから」
「おい、失礼なことを言うな」
「あ、いまの口調カガミさんみたいですね」
「うるさい」
「まあまあ、探偵さんもまだ十代だしいろいろあるよねー」
「お前もいいかげんなことを言うな」
「だいじょうぶでしょ、チャイム修理なら入口辺りで作業するだけだし部屋の奥にまで入ってこないから。とっとと直しちゃいなよ」
「そうですよ先輩、お客さんが来ないとぼく退屈です」
「おまえの退屈を晴らすために探偵やってるんじゃないぞ、帰れ」
「ハシバ君も財閥跡取りの勉強で最近あまり遊んでくれないし」
「おや、君の事に関してはあんなに過保護だったハシバ君がねえ」
「ナカムラさんも二十面相後はほとんど事件持ってきてくれなくなったし」
「あははー平和がいちばんでしょ、コバヤシ君」
「んーもぅ、みんな落ち着いちゃってつまらないなあー」
「そうだな」
「へ?」
「確かに最近頭を使うほどの事件が無い。おいナカムラ、今日は何か面白い話でも持ってきたか」
「もー探偵さんも不謹慎だなあ、しがない連絡係にあんまり期待しすぎないでよー来づらくなっちゃうじゃない」
「大した用件も無いのにわざわざ階段上ってここに来るほどヒマなのか刑事は」
「あーそうそう、いいかげんエレベータ直してくんないかなあ、けっこう慣れたつもりだけどまだキツイんだよー」
「そうだ、パーティーしましょう」
「え、なんの?」
「アリスであるじゃないですか、なんでもない日、おめでとう!…って」
「ばかばかしい」
「先輩も参加してくださいよーほら、この間みたいにホットケーキでいいです!今まで食べた中でいちばんおいしかったし」
「オレがそう何度も言うこときいてやると思うのか?」
「えぇー」
「あー、あのさぁ探偵さん」
「何だ」
「えーとね、」
「なんだ、さっさと言え」
「…その、ホットケーキさ、よかったら作ってくれないかなー カガミがさ、あいつ好物だったみたいでね、前に作ってもらって嬉しかったみたいでさ、たびたび話題に出してたんだよね。君のホットケーキ」
「あいつが?」
「うん。持ってってやりたいんだよ、探偵さんが作ったホットケーキ」
「…持っていく間に冷めちまうだろどうせ」
「ま、そうだけど、ね…でも」
「フン」
「先輩、こんなこともあろうかと、ぼく材料買いそろえておきましたー!」
「やるねえコバヤシ君。あ、わたしも手伝うよ」


みんなで焼こう、ホットケーキ。
そして、カガミのためにもう一枚。


(このSSはホットケーキの続編です)

6月のおもいで

「ナカムラさんいらっしゃいますか?……あれ、ここにもいない」
「なんだぁ、お前がここに顔出すって珍しいなカガミ」
換気レベルを最大にしてもなお視界が良くない部屋の中から声がする。
「一課にも姿が見えませんし、出かけるという報告もないんですよ。ご存じありませんか」
「トイレじゃないの?」「個室で唸ってないかあ」
続く笑い声を背にして、やれやれと頭を振りながら次の探すアテは、と首をかしげる
「コールしても出ないしなあ」ともう一度スマホで呼び出す。と、聞き覚えのある呼び出し音が隣の小会議室から響いてきて、急ぎドアをノックして開ける。
「ナカムラさん?」
だが其処にもナカムラの姿は無かった。途方に暮れるカガミの耳に、しかし引き続き聞こえるコール音。
「あ、あった、ナカムラさんのケータイ!」
それはコの字型に並べられた長机の端で、所在無げに振動しつつ呼び出し音を発し続けていた。だが、持ち主はいったいどこへ?
途方に暮れるカガミ。その背後からいつもの間の抜けた声が呼び掛けた。
「あっれえカガミくん、どしたの?」
「……どしたの、じゃありませんよナカムラさん!いったい私がどれだけあなたを探し回ったか、いったいどちらへ行かれてたんですか!!」
一瞬、安堵の後どっと沸き起こった怒りを抑える事が出来ず、カガミは一気にまくしたてた。
「ああー悪い悪い、ちょっと腹具合がおかしくてさぁー」
「ほんとにトイレだったんですか......」
一気に脱力するカガミ。
「まぁ、わかりました…...2課と打ち合わせの時間ですよ、早く行きましょう」
「ごめんねぇ、でも会議途中で中座するのも何だしさぁ」
首すくめて後輩の叱責をうけながらも、へらへらと緊張感のないナカムラ。カガミはそんな彼を見て、あきれつつも和んでしまう。
「仕方ないですねえ……あ、そうだ」
とナカムラのケータイを取り出す。
「ナカムラさん、会議室にこれお忘れでしたよ」
「あ!?あっ、あれぇ、ほんと?」
上着の内ポケットやら尻ポケットをまさぐるも、目指すものがなくみるみるナカムラの顔は青くなる。
「カガミくんが拾ってくれたのかぁ、よかったー」
「気を付けてくださいよ、ナカムラさん」
笑ってナカムラにケータイを渡す。ところが、ナカムラは受け取ったケータイを手の中でモゾモゾもてあそびながら、なぜか重そうに口を開く。
「えっとね、カガミくん……」
「はい?急がないと、皆さんお待ちですよ」
「あぁ……、あのさ、ケータイの中、見ちゃった?」
カガミはそれを聞いて少しムッとする。
「そんな、ナカムラさんに無断で見たりしません!」
「う、うーんそうだよねーごめんねー」
「……?なんです、何かご懸念があるのですか?」
「うーん、いやぁ……」
「わかりました。」
「はい?」
「ナカムラさん。ケータイを見せていただけませんか。」
「ええっ」
「ナカムラさんとの間に私は、このようにもやもやした気持ちを持ち続けるのは、いやです。見られると困るものですか?ナカムラさんの人生が狂うようなものですか?」
「いやーそんなことは、無い……と思うけど、ね」
「はい、ナカムラさん」
カガミはナカムラの前に掌を差し出す。
「うん」ナカムラは、渋々ながらケータイをカガミのてのひらにのせる。
すると、カガミはぱぁっと顔を輝かせた。
「ありがとうございます。もう納得しました、お返しします。ためすような真似をして申し訳ございません!」
中もあらためぬまま、カガミはまたナカムラにケータイを返す。
「え、いいの?」
「はい!」
ナカムラはあっけにとられて、返されたケータイを手にしたままカガミを見る。
「そう来たかあ……よしっ、見せちゃお!」
そう言って、ぱかっとケータイを開き、カガミの方へ警察手帳のように突き出す。
「ごめんなカガミ、ほら」
「……あ」
開かれたケータイの待ち受け画面には、自分が紫陽花に向かってスマホをかざしている姿があった。
「ナカムラさん、これ一体いつ...?」
「はは、まだ君がここにきて間もない頃にさ、あそこの公園の紫陽花にカタツムリがいるの見つけて夢中で写メ撮ってたことがあったの、おぼえてない?」
「うーんんん?」
「はは、もうおぼえてないかぁ、そりゃそうかあ、でね、あんまりカガミくんがかわい……いや、絵になるからさ、つい撮っちゃったんだ。ついでに待ち受けにもしちゃってさ、ついついずっとそのまんまで……ごめん!!」
「ナカムラさん!」カガミが勢い込んで大声を出す。
「ひえっ!?ごめんね!?」
「いえ、私も思い出しました、確かまだ……これです、この時ですよね!?」
カガミはスマホで指をせわしなく動かし、めざす画像を見つけ出した。
「あ、そうそう、その日付!思い出したかあ、いやぁ無断で隠し撮りみたいなことしちゃって今まで黙ってて、ほんと悪かったよね」
「ありがとうございます!」
「へ?」
「私の写真を、大事に待ち受けにまでしていただいて、本当に嬉しいです!」
「……怒んないの?」
「なぜです?」
カガミはきょとんとして聞き返す。
「いやぁ……だってさ、気持ち悪くない?」
「そういうものですか?あ。待ってください」
カガミはスマホの上で指を素早く動かし、「見てください」と画面を差し出す。
「へ、なになに……ってうわっ!!」
そこには、一面ナカムラの姿を撮影した画像が並んでいた。
「なにこれ!?いつの間に?」
「私も、日々のナカムラさんの姿をとどめたくて、ずっと撮り続けているんです。ホラ、この写真なんか我ながらよく撮れていると思うんですよ……!」
「お、おい……」
「ほら、これも……あとこっちのは、ブレてしまったんですがかえって躍動感が」
「おい!」
「あっ、はい?」
「いい加減にしろよこの野郎!!」
「えっ?何がですか??」
「なにって……、……まあ、……いいか……」
「いいでしょう!ほらこっちのアルバムには撮る角度にこだわった画像をですね……」

「おい、そこのふたり!!」

廊下に響き渡る大声にびくっと肩をすくめる。
「ナカムラ!なにやってんだ、もう時間過ぎてんだぞ、さっさと来い!」
二人は顔を見合わせ、慌てて怒鳴り声の主の方へ走り出す。

走りながら、
(こいつって、ちょっとやばい奴なのかなあ……)
と自分の事は棚に上げて思うナカムラであった。
 

これは今年(2017年)のカガナカカレンダー6月用に書いた短文の、後日譚です。
www.pixiv.net

去日

どの位こうしていたんだろう。
六畳間に猫背で胡坐をかき、頭の奥でシーンという音を感じながらぼうっとしていたら、窓の外は夕焼けから夜空になってた。

どのくらい一緒に居たっけ。ほんの数年なんだよなあ。「ちゃん」、から初手柄で「くん」呼びになるのは早かったね。さらにキャリア組だから、あっという間に警視になって。


「ほんとはナカムラさんと一緒に住みたいんです」
 部屋に遊びに来ていたカガミがふとそう言った。
「でも、妹をひとりにさせる事なんて考えられない」
「ふふ、君はそう思っていてもさぁ、トキコさんもじきお嫁さんになって出てっちゃうんじゃない?」
「……あぁ、考えたこともなかったです」
「えっ、ほんと?そりゃあ、またずいぶんと」
「でも、考えてみたらそうですね。トキコはいつか学生から社会人になって、何処かの誰かと結婚するかもしれない。」
「そうだよー。海外でデザインの勉強を続けたくなるかもしれないし、友達と事業を始めるかもしれない。いつか、あの部屋から出て行ってしまうかもね。あー、でも君の事が心配でなかなかそうはできないかなあ。君、家事はからきしだもんな」
「私とトキコは、いつまでもずっと一緒に暮らすんだ、と思っていました……」
「あぁほらほら、たとえばの話なんだからさ、いちいち落ち込まないの。一緒に居ればいいじゃん。一緒に居て幸せなうちは、無理して別居することなんてないよ。君ら兄妹はおひな様みたいにお似合いな二人だよー」
「ですが、ナカムラさんとも一緒に住みたいんです」
「君はさ、家族がほしいんだね」ナカムラはカガミを見上げて目を細める。
「だいじょうぶ、焦らなくても、きっとカガミはにぎやかな良い家族を持てるよ」
「俺は、トキコとナカムラさん以外の家族なんて想像できません」
「いいねえ、楽しそうだねえ。でもさぁ、君は、まだ若いんだからさ。これから先、君はたくさんの人と出会うんだ。そう決めつけちゃ駄目だよ」


えらそうなこと言って、いいかげんなこと言って。これ以上ないってくらい、あいつひとりぼっちになっちゃったじゃないか。家族どころか、これじゃ、おれはまるで貧乏神だよ。
カガミちゃん、から始まって、カガミくん、になって、やがてカガミ警視、になって、そしてただの、カガミ。呼び名はどんどこ変わってったけど、どの呼び名の時も、好きだったよカガミ。

夜は更けて窓の外、漆黒の空にはほそくほそく、折れそうな月が引っかかってる。

家族になろう

そう言えてたら、どんなに良かっただろう。

バレンタイン

ナカムラが待機する車に、カガミがドアを開け助手席に座った。
「あー警視、明日の捜査ですがね、…え?」
車を出そうとするナカムラの手を遮り、カガミがキーを戻した。
「えっ?何なに、なんなの?」
「もう、いいかげんにしませんか」
いつもの穏やかな口調と違うカガミに、ナカムラはわざとお道化た口をきく。
「ヤッホー?どったの警視?ずいぶん機嫌悪いじゃない」
「ナカムラさん、あと一日で人生が終わるとわかったら、何をします?」
「ええ~、いきなり何です?」
警視は係長の両肩を掴み、真正面から係長の顔を覗き込む。
「あと数時間で自分が死ぬと知ったら」
カガミはナカムラの座る運転席のシートを倒す。
「私は、今までずっとやりたくて我慢していたことを、します」
(えっ)
カガミの若く柔らかい唇がナカムラの口をふさぐ。
あまりのことに驚いて硬直し、身じろぎもせず、カガミのなすがままにされるナカムラ。
それをいいことに、カガミは口付けながらナカムラのネクタイを緩めシャツのボタンを性急に外していく。
そしてスラックスのベルトに手をかけたところでさすがにナカムラが顔を横にねじって怒鳴った。
「こら待てカガミッ!」
「待ちません」
「なっ!?良いから、ちょっとおれの上からどけ、おいっ」
「どきません」
頭にきてまた怒鳴ろうとしたナカムラは、カガミの顔を見て言葉をひっこめた。
カガミ警視が、もとの端正な顔をくしゃくしゃにして、体裁も構わず今にも泣きだしそうな表情をしている。
「お、おい?一体どうしたんだよ?」
「今朝、夢を見たんです」
「ゆめェ?」
トキコが、妹が死ぬ夢です。ナカムラさん、どうしよう、トキコは最後の肉親なのに、守れなくって、妹が死んだら俺は、もう生きていけない、トキコが居ない世界で生き続ける意味が見つからない、そう、俺も死にます、そして死ぬんだったら、もうこれ以上こらえる意味なんてない、ナカムラさん、俺は」
ナカムラは泣きながらわめき続ける上司を唖然として見上げた。
「お、おい落ち着けよ?夢の話だろ?いま現在、妹さんは生きてるんだろ?何でそんなに取り乱す必要があるんだよ?」
「あなたは、何もわかってない」
ベロベロの泣き顔から、急に真顔になったカガミが低い声で言った。
「私がどんな理想を掲げていても、唯ひとつ、私の妹が奪われたら、それだけで私の人生は終了を告げる。そのことに俺は、ようやく気付いたんですよ」
冷たく浸食する真実。
「思い残すことも、唯ひとつ、ナカムラさん、あなただけなんです」

カガミの人生に必要なのは妹だけ、そしてナカムラが居れば、世界はそれで完結する。
エンジンと共に暖房も切れていた車内は、どんどん寒気が増してゆく。

冷たい、冷たいバレンタイン。

針路5

逃げ込んだKOBANの警察官はぼくを守ってくれた。連中はここまで僕を追ってきたのだけど、そして自分達こそがぼくの保護者であると主張したらしいのだけど、警官は気を喪ったぼくをそのまま連中に引き渡そうとはしなかった。助かった。警察も、まだ捨てたもんじゃないよね。

つぎに目を開けたとき最初に見たのは、ぼくを覗き込む大きな柘榴石色の瞳だった。
彼女はまっかなくちびるをニィとひきあげ弧を描くと、首を横にかしげる。途端に雪崩落ちるゆたかな黒い髪。ぼくは見惚れてちょっとした既視感を味わった。
ぼくがまだぼうっとしているのを見て、彼女は笑顔のまま取り出したタブレットをぼくへ手渡す。
「何やってんだよおまえは!」
「あ、ハシバ君」
「あ、じゃないよ心配したんだぞもう何日行方をくらましてたんだよどんなにオレが探し回ったと思ってんだよ」
「うん、ごめんね」
「現地の連絡員からお前の姿を確認できないって報告が入ったときオレがどれほど動転したか、」
「うん」
「ハッ、そうだどこかケガはないのか?なにかひどい事されてないか?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
「そ、そうか」
「実はまだちょっとぼんやりしてるけど」
「なんだって?お、おい大丈夫じゃないじゃないか」
「少しは落ち着けハシバ」
「でっでもアケチさん」
「よぉ、随分久しぶりじゃないか少年」
「こんにちは、アケチ先輩」
「どうだ、旅立っていきなりのハプニングの味は」
「ふふ、そうですね。退屈じゃないです」
「コバヤシ、馬鹿言ってないで戻って来いよ!オレがそこへ迎えに行くから、また危ない目に合う前に一緒に帰ろう!」
「ありがとうハシバ君、でもぼくまだ本来の目的地にすら着いてないから、ここから飛行機に乗り継いで行きたいんだ」
画面のハシバ君は口をぱくぱくさせて何も言わなくなってしまった。
「おい少年、ほんとに戻る気はないんだな」
「ええ、でも旅を続けられたらの話ですけど」
「いやいやいやちょっと何言ってんの探偵さん、ダメに決まってるっしょ?」
「あ、ナカムラさんもお久しぶりです」
「やぁコバヤシ君、髪のびたねー。ね、ハシバ君このままだと呼吸困難で死んじゃいそうだし戻ってきてあげたら?そしてまた仕切りなおして再出発したらいいじゃない」
「そうですねえ。でも、せっかく途中まで来たんだからもったいないですよ。ぼくもう時間を無駄にしたくないですし」
ハシバ君の横で、ナカムラさんも苦笑したまま黙ってしまった。
「少年、横の女に代われ」
アケチ先輩が言うと、いつの間にか僕のベッドのわきに腰かけていた黒髪のひとが、ぼくからタブレットをひょいと奪う。そしてしばらく、聞き取れない小声の早口で会話したかと思うと、またすぐぼくにタブレットを返した。
「少年のビザは期日更新された。それからな、機関に都度報告をすれば今後の旅費の心配はないそうだ。......のるか?」
願ったりかなったりの申し出にぼくは勢い込んでYES!と答える。
すると、黒髪のひとがぼくの背をバンと叩いて右手を差し出した。
「しばらくの間、機関との契約により私があなたの教育係として同行する。よろしく、コバヤシ少年」
「でもぼく、ひとりになるために日本を出たんですよ。機関へはちゃんと言われた番号へ定期連絡しますから、ひとりで行っちゃだめですか?」
「私の教育係という役割上、それは無理だ。でも、訓練以外の時なら極力ひとりにしてあげよう。大丈夫、問題ない」
「えー」

そんなわけで、不本意な形だけれど何とかぼくは旅を続行することになった。そして、
「ぼくもこのまま髪をのばしてみようかなあ」
目の前の人を見ながら、なんとなくそう思った。

針路4

今日も、と言っても日にちの感覚が無くなってしまったけれど、ご飯が待ちどおしい。

ここの床は冷たくて硬いけど、何度か取りかえられる良いにおいの敷物がふんわり柔らかで気持ちいい。拘束も肌にくい込むことはなく、たまに向きを変えてはめ直してくれるので体もそんなに辛くならない。トイレや体の洗浄も、自然な欲求が出る前にひとりずつドアの向こうの施設へ連れ出される。最初は怖がって暴れていた子達も、今は素直におとなしく連れてかれる。最初この場を満たしてた恐れや怒りや焦りの感情も今は消滅して、とても穏やかな空気だ。

あ、ご飯が来た。

いつも通りに、スプーンですくって口に運んでもらう。……ああ、おいしい……。

ふた匙めを呑み込んでちょっと下を向いた時、髪の毛が頰をすべり、かすめた。

(え?)

ぼくの髪、こんなに伸びてる?

気がつけば、前髪もそうとううっとおしい。髪の毛の伸びる速さってどのくらいだっけ。ぼくはわりと早い方だって美容師さんに言われるけど、これたぶん切りたての時より5センチは伸びてる。人間の髪って1ヶ月に1センチ伸びるって聞いた様な気がする。飛行機に乗ってから、5ヶ月は経ってるって事か。

……そんなに?

驚いたせいか、少しずつぼんやりしてた頭の霧が晴れて来た。そして、自分の状態がおかしいこともわかって来た。

たぶん、食べものに何か混ぜられてるんだ。そしてこの敷物の匂い。たぶんこの二つのせいで、ぼくたちはぼんやりさせられ、逃げる気もなくしてる。もしかしたら常習性のある成分も含まれているかもしれない。

だめだ、ここを出ないと。でも、どうやって?

とりあえず、頭をはっきりさせようと、敷物から少しずつ離れていくようにする。食べ物も、眠いフリをして食べる量を少なく。すでに数か月経っているなら、見張る側もすっかり従順になった僕らにだいぶ警戒心が薄らいできてる筈だ。今この時、ぼくの頭に理性の光が差したのは、 幸運だったのかもしれない。

ぼくがトイレに連れ出される時間になったらしい。腕を引かれ、 向かいのドアを通って。用を足すときは個室でひとりになれる。体を洗う時もそうだ。でも抜け出せるような窓は無いし、通路にも見張りはやっぱりいて逃げ出せる余地はなさそう。ぼくは特別足が速いわけでもないし、追手の目をくらませるような機転が利くタイプでもない、もちろん腕力も強くない。どうしよう......どうしようもない。

 

今日もご飯の時間が来たようだ。

僕は眠いふりをしながらひとさじをゆっくり口に含む。そして、もうひと口。「……ン、あ?」

「ぐうッッッ......!」

ぼくは胸をおさえて転げまわる。

涙とよだれが止まらない。と、他の女の子たちも苦しみ始めた。一気にその場がうめき声で満ちる。給仕の男たちも手のつけようがないほどに。ばたばたと入ってきたのと同じドアへ駈け込んでいく。医者を呼んでくるんだろうと思ったけど、しばらくして担架が運び込まれ、ぼくも含めてこの場に居る子たちを連れ出していく。ああ、集団食中毒だからいったん医療設備のある場所へ隔離するんだ。担架が外へ出たとき、

 

「NOW!!」

 

顔中を口にして腹の底から、ぼくは叫んだ。

途端に起き上がり、てんでばらばらの方角へ力の限り走り出すぼくら。手枷ははめられているけれど、連れ出す際につなぎ留められていたパイプはもう無い。それこそ蜘蛛の子を散らすように逃げるぼくらを、虚をつかれた彼らは全て捕らえることはできないだろう。不運な子はいるかもしれない、でも僕らが逃げれば外へ助けを求めることができる、いやもしかしたらこの国の警察も信用できないかもしれない、でも、今はとにかく。

力の限り走った。景色が歪んで見えてグラグラする、でももう捕まるわけにはいかない。ぼくはここでは終わらない。

必死に走っているぼくの目に、「KOBAN」の文字が飛び込んできた。え、交番?でも考えるヒマもなく、ぼくはその小屋の入口に飛び込み、そしてそこで意識が途切れた。