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zencro’s diary

乱歩奇譚SS

針路4

コバヤシ

今日も、と言っても日にちの感覚が無くなってしまったけれど、ご飯が待ちどおしい。

ここの床は冷たくて硬いけど、何度か取りかえられる良いにおいの敷物がふんわり柔らかで気持ちいい。拘束も肌にくい込むことはなく、たまに向きを変えてはめ直してくれるので体もそんなに辛くならない。トイレや体の洗浄も、自然な欲求が出る前にひとりずつドアの向こうの施設へ連れ出される。最初は怖がって暴れていた子達も、今は素直におとなしく連れてかれる。最初この場を満たしてた恐れや怒りや焦りの感情も今は消滅して、とても穏やかな空気だ。

あ、ご飯が来た。

いつも通りに、スプーンですくって口に運んでもらう。……ああ、おいしい……。

ふた匙めを呑み込んでちょっと下を向いた時、髪の毛が頰をすべり、かすめた。

(え?)

ぼくの髪、こんなに伸びてる?

気がつけば、前髪もそうとううっとおしい。髪の毛の伸びる速さってどのくらいだっけ。ぼくはわりと早い方だって美容師さんに言われるけど、これたぶん切りたての時より5センチは伸びてる。人間の髪って1ヶ月に1センチ伸びるって聞いた様な気がする。飛行機に乗ってから、5ヶ月は経ってるって事か。

……そんなに?

驚いたせいか、少しずつぼんやりしてた頭の霧が晴れて来た。そして、自分の状態がおかしいこともわかって来た。

たぶん、食べものに何か混ぜられてるんだ。そしてこの敷物の匂い。たぶんこの二つのせいで、ぼくたちはぼんやりさせられ、逃げる気もなくしてる。もしかしたら常習性のある成分も含まれているかもしれない。

だめだ、ここを出ないと。でも、どうやって?

とりあえず、頭をはっきりさせようと、敷物から少しずつ離れていくようにする。食べ物も、眠いフリをして食べる量を少なく。すでに数か月経っているなら、見張る側もすっかり従順になった僕らにだいぶ警戒心が薄らいできてる筈だ。今この時、ぼくの頭に理性の光が差したのは、 幸運だったのかもしれない。

ぼくがトイレに連れ出される時間になったらしい。腕を引かれ、 向かいのドアを通って。用を足すときは個室でひとりになれる。体を洗う時もそうだ。でも抜け出せるような窓は無いし、通路にも見張りはやっぱりいて逃げ出せる余地はなさそう。ぼくは特別足が速いわけでもないし、追手の目をくらませるような機転が利くタイプでもない、もちろん腕力も強くない。どうしよう......どうしようもない。

 

今日もご飯の時間が来たようだ。

僕は眠いふりをしながらひとさじをゆっくり口に含む。そして、もうひと口。「……ン、あ?」

「ぐうッッッ......!」

ぼくは胸をおさえて転げまわる。

涙とよだれが止まらない。と、他の女の子たちも苦しみ始めた。一気にその場がうめき声で満ちる。給仕の男たちも手のつけようがないほどに。ばたばたと入ってきたのと同じドアへ駈け込んでいく。医者を呼んでくるんだろうと思ったけど、しばらくして担架が運び込まれ、ぼくも含めてこの場に居る子たちを連れ出していく。ああ、集団食中毒だからいったん医療設備のある場所へ隔離するんだ。担架が外へ出たとき、

 

「NOW!!」

 

顔中を口にして腹の底から、ぼくは叫んだ。

途端に起き上がり、てんでばらばらの方角へ力の限り走り出すぼくら。手枷ははめられているけれど、連れ出す際につなぎ留められていたパイプはもう無い。それこそ蜘蛛の子を散らすように逃げるぼくらを、虚をつかれた彼らは全て捕らえることはできないだろう。不運な子はいるかもしれない、でも僕らが逃げれば外へ助けを求めることができる、いやもしかしたらこの国の警察も信用できないかもしれない、でも、今はとにかく。

力の限り走った。景色が歪んで見えてグラグラする、でももう捕まるわけにはいかない。ぼくはここでは終わらない。

必死に走っているぼくの目に、「KOBAN」の文字が飛び込んできた。え、交番?でも考えるヒマもなく、ぼくはその小屋の入口に飛び込み、そしてそこで意識が途切れた。

 

針路3

コバヤシ

ねぇ、何がいけなかったんだろうねハシバ君。

座席に座って、サービスされたオレンジジュースを飲んだところまでは憶えてるんだ。
そしたら、次に気付いたのはこんなコンクリートむき出しの冷たい床の上でさ。
飲んだ時、ちょっと苦いなあと感じたんだ。でもそのすぐ後たぶんぼくはもう気を失ってたんだと思う。
これはしまった、と思う。誘拐犯を追っておとりになったときとはわけが違うからね。
寒くはない。屋根も壁もある。きっと、空調もきいてるんだ。
ただ、固い床に転がされていたから少し体が痛い。
それに腕が自由にならない。ちょっと無理して後ろを覗いてみたら、何かのパイプに縛り付けられていたんだ。
持ち物も取り上げられたんだろうな。服はそのまま、ポッケのハンカチとかも残ってる。

ここは、どこなのかな。
目的地のベナレスは日本からの直行便は出ていない。まずバンコク、そこからデリー行きに乗って、今度はベナレス。2回乗り継いでやっと着く。
航空券、高かったのになあ。進学する気ないからって言って、高校進学した場合にかかるはずだった学費を、渡航費に充ててもらったんだ。
なのに、インドにすら着いてない。たぶんバンコク......。

あれ、また気を喪ってたみたいだ。
周りを見回したら、女の子がたくさんいた。目が覚めてる子、まだ眠っている子。
ああ、人身売買の組織だったのかな。
今度はうっかり眠らないようにしなくっちゃ。でも、薬のせいだとしたらいくら頑張っても無理だよね、困ったなあ。
あ、おなかすいたなあ。
ハシバ君やアケチ先輩、今ごろどんなご飯を食べてるかなあ。
高い天井近くにある小さな窓から漏れる光で、たぶんまだ昼間だという事は分かる。ご飯、くれるよね?見たところ、ぼくらは大事な商品だ。ケガさせたり飢え死にさせたりは、たぶんしないだろう。
あ!いいにおい!ご飯かな?

目のとこだけ開けて、顔をすっぽり布で覆ったひとがシチューのようなものを木のボウルに取り分けていく。
ああ、早く食べたい、食べたい。でも、腕の拘束を解いてくれるのかなあ。
あ、食べさせてくれるんだ......手慣れてるなあ。
ふう、なんておいしいシチューなんだろう。こぼさずに食べたい。でもやっぱり急かされるなあ。

ここに来てから何日経つんだろう。
上の窓から漏れる光でわかると思ったけど、なんだか頭がぼんやりして一日の始まりと終わりがよく分からない。
今日もご飯が楽しみだ。
もしかしたら、ご飯の時間を少しずつずらして時間の感覚を奪われているのかもしれない。
ああ、おなかが空いたなあ。
ここに来たたばかりの時は、まわりの女の子たち泣いてたり拘束をどうにか解こうとしたりしてたけど、今はもうすすり泣く声も聞こえない。ぼくと同じ様にぼんやりした感じ。
ハシバくんごめんね。心配してるよね。でもご飯がおいしいから、ぼくは大丈夫だよ。

あ、ご飯が来た。

針路2

コバヤシ

「えい」
僕にしては律儀に、自分もくるくる回って地球儀を指差した。
この地球儀には陸地が高地低地とそれなりにリアルに隆起した処理を施されている。指先に凸面の感触があって、(やったぁ陸地だ!)とわかりゆっくり目をあけた。
「インドかー、ええと、ベナ…レス?」
聞いたことはあるなあ。渡航可能だよね。
行先が決まってよかった。あした先生に国際学生証とか頼めるかきこう。
でも僕、中学卒業してから渡航するつもりだし高校は入学しないから、国際青年証だよね?
「……あれ」
ここまで来て何だけど。
「僕、なんで孤独になりたいんだろう?」

***

「何言ってるんだよコバヤシ!」
あんのじょうハシバ君は怒った。
「ごめんね、ハシバ君にとっても大事な時期に、せっかく君が僕のためにいろいろ考えてくれたのに。」
「いや、それはいいけど…なんで海外に行かなきゃならないんだ?しかも、興味のある国があるわけじゃないのに、そんないい加減な方法で行先を決めるなんて!いくらコバヤシでも無鉄砲すぎるだろ?」
もっともなことばかりだよね。ハシバ君は、もっともなことしか言わない。
「ハシバ君は、お父さんの後を継ぐためにたくさん勉強する必要があるから高校行くんだよね。じゃあ、僕は何のために高校行くんだろう。中学までは義務教育だからしょうがないけど、高校は勉強続けたい人が行くんでしょ?僕、特に学校で勉強したいとは思わないんだ。でもすぐ働きたい職があるわけでもないし、だからさ」
「だから、なんで海外なんだよ。しかもインド?おまえ、英語だってそんなに得意じゃないだろ?言葉通じないところへ留学するのか?」
「留学じゃないんだよ。ビザとって長期滞在するんだ。それでねハシバ君、ベナレスってさ」
「コバヤシ、ただ旅行しに行くだけなのか?なら、学校の夏休みや試験休みを利用して行けばいいじゃないか。」
「んー、ほんとはインドだけじゃなくって、行く先々でビザとっていろんな国を渡り歩きたいんだー。まだ調べてないんだけどさ、未成年でも大丈夫かなあ?」
「大丈夫なわけないだろ、そんなに行きたいなら俺が未成年も参加できる安全なツアーを探してやるから、あんまり無茶ばかり言うなよ」

あ。

「コバヤシ?おい聞いてるのか?」
「……うん、ハシバ君ごめんね、よく考えてみるよ。ありがとう、じゃあね。」
「考えるんじゃなく、考え直せよー」

気づかわし気なハシバ君の声に、笑って手を振る。

ごめんね、ハシバ君。

 

針路1

コバヤシ

「ナカムラさん、刑事の仕事っておもしろいですか?」
「へ?」
いきなり顔の右横から問われて素っ頓狂な声が出た。
「ああなんだぁコバヤシ君かあ。なに急にどしたの?」
「学校で進路について考えて来いって言われてるんですよー。ぼく別に高校行きたいって思ってないし、このまま探偵事務所で助手やっていたいんですけど、アケチ先輩が高校行かなきゃ辞めさせるってー」
「へえー探偵さんもジョーシキあるじゃない、つっても不登校許可もらって名ばかり高校生のアケチ君から言われても説得力無いよねえ、あっそうだ、探偵さんと同じように入るだけ入って不登校しちゃえばいいじゃないの、許可もらってさぁ」
「おい、俺はこいつに不登校許可まで口利きしてやる気はないからな。見習い許可証融通してやっただけでも破格の待遇なんだぞ。それになナカムラ。いいのか、仮にも警視庁捜査一課の警部がそんなこと言ってて」
「あぁーははは、そーそー、高校は行っといた方がいいんじゃない?ハシバ君だって行くんでしょお?いいじゃん一緒に行っちゃいなよぉ、楽しそうじゃん」
「そりゃハシバ君はとっくに進路決まってますし僕もいっしょに行けたらいいかもって思いますけど、出席日数とか単位とか、そのためにわざわざ用意しなくちゃならないなんて、ひどく時間の無駄だと思いませんかー?僕今まで結構休んだり試験さぼっちゃったりしてましたから、高校行くとしたら今からあくせくして授業受けなきゃいけなくなるんですよ。」
「ふん、ずいぶん自信があるんだな。ハシバの志望校はかなり競争率激しいところじゃないか。今から猛勉強したって危ないんじゃないのか?」
「ええ、でもハシバ君、僕がその気なら自分の家庭教師つけてくれるって。十分間に合うって張り切ってますよ。だから大丈夫なんじゃないかなあ。」
「じゃあもう決まりじゃないの、高校行かなきゃ探偵の助手は続けられない、受験はハシバ君のサポートで安泰、行くしかないでしょ。なんでわたしに刑事の仕事がどうかなんて聞くの?」
「だってー、僕の探偵助手って身分なんてアケチ先輩の胸ひとつで消し飛んでしまうような不確かなものじゃないですか。それにナカムラさん見てると運動能力いまいちな僕にも刑事って勤まりそうな気もするし。そうだ、ぼく刑事になってナカムラさんと組みます!そしたら、連絡係としてこの事務所にも変わらず顔出し続けることができますよね?」
「いやいやー、コバヤシくーん、さすがにそれは刑事って仕事あまく見てないー?いちおう刑事になるのだってなかなか大変だし手間がかかるよー。いまどき中卒で警察官採用されるのも難しいなあ、高校や大学は出といた方がいいと思うよー?で、頭がいいなら第一種国家公務員試験うけてさ、カガミもそうだったなあ」
「おいお前ら、ここは進路相談室じゃないんだ。無駄話はもういい加減にして帰れ。」
「うーん……」
「はは、じゃあコバヤシ君一緒に出ようかぁ?送ってくよーほらほら」
「……はーい」

ばたん

「ふぅ」
「やっと静かになったか。あいつら全くここを何だと思ってるんだ。眠れやしない」
(あいつ、カガミの名前ふつうに出せるようになったな)

***

「ナカムラさん、ぼく警察官にはなりたいと思わないんです。だから刑事になるのはあきらめますね。」
「あっそー、さすが最近の子は切り替えが早いねえ。で、高校行くの?」
「今は行ってもいいかもって思うけど……多分同じところに通い続けるとじきに飽きると思います。だから、やっぱり行きません!」
あいかわらずひとを突き放すような清々しいほどの笑顔だなあ。あらら、ハシバ君も可哀想に。
「行った方がいいのにー。じゃ、どうする?」
「とりあえず、日本から出ます」
「へ?」
「どこにしようかなあ。どこがいいと思います?」
「いやいやいや」
もうこの子には驚かされてばっかりだね。
「いやぁ、俺はこの国から出たことないからねえ。……あのさ、なんで海外なの?」 
「わからない言葉話すところへ行って、ひとりになってみたいんです。日本語通じるところだと孤独になれませんから」
「はぁぁ、なるほど……?でも全然言葉が分からなくなってどうするの?」
「英語の単語をメモ帳に書いて、見せて何とかならないかなあ」
「ううーん……ならんと言うとこなんだろうけど、不思議と、君ならなんとかなっちゃうような気がしちゃうんだよねぇ。でもなあ、留学生として、って訳ではなさそうだけど……親御さんには相談した?」
「いいえ、相談しても困らせるだけだと思うんで黙ってます。最近は僕のこと諦めてるみたいで割と好きにさせてくれてるから、この事ももう後は保護者の許可が必要な部分だけになったら話そうかなーと思ってるんです」
「いやあ参ったねえーもうそこまで考えちゃってるの。だったらさあ、行先だって自分で考えちゃえば?」
「だって、自分で決めたら自然と無意識にぼくにとって有利なとこにしちゃいそうじゃないですかーそれじゃ、やっぱりつまらないですよ。かと言って、アケチさんはぜっっっっったいに助言なんてしてくれないだろうし、ハシバ君に聞けば財閥の影響力のあるところばかり勧めるだろうし、なので、ナカムラさんが決めてください!」
にっこり。天使のように悪魔のような笑顔だよねぇ、もう……やだよ、俺そんな責任を背負うのは。
「じゃあさぁ、地球儀くるくる回して、ついでに自分もくるくる回って、目をつぶってえい!と指さしたところに行くことにすればぁ?無作為で良いでしょ?」
「わぁ、それ面白そうですねぇ。僕やってみますね!ありがとうございますナカムラさん」と、またにっこり。
「ただし、」俺は言い継いだ。
「海の上指さしちゃったらアウト。それと、紛争地域以外の、日本国のパスポートで行けるとこ限定。そこ以外さしたら諦めるんだ、やり直しは無し。……いいね?」

 

眼鏡 続

ナカムラ カガミ

「や、また来たよー」
入って来たナカムラが腕を組んだまま頭を傾ける。
「すみません、いつも気にかけていただいて」
「 いっやーおれの方こそ度々呼び出してごめんな。カガミが地下にいると思うとついつい足が向いちゃうんだよねえ」
すっかり面会室にも馴染んだ態で、ナカムラは丸椅子に腰掛ける。
「ああ、そうそうこれこれ」
腕組みをほどき、持っていたケースを差し出した。
「あ、ありがとうございます。すみません探していただいて。すぐ見つかりましたか?」
「うん、カガミの部屋のベッド脇においてあったよ。でもそれでホントに大丈夫?」
「ええ、日常生活に支障がない程度には見えます。正直とても助かりました」
「でもなー合わない眼鏡かけてると度が進むっていうしなー」
「心配していただいて、ありがとうございます。でも以前から寝る前などはこれ使っていたので、あまり問題ないかと」
「そうかあ。でもあんばい悪かったら言いなよ?」
「はい」

***

「こんちはーカガミ」
「こんにちは、ナカムラさん」
いつものように、いつもの場所で二人は話し始める。
「あのさー、これ良かったら使ってもらえるかなあ」
ナカムラはアクリル板と鉄格子の向こうから、細長い箱を振ってみせる。
「?何です」
「えっとねー、眼鏡なんだー」
「俺に、ですか?」
「うん…勝手に悪かったけどさ、おまえの部屋で洗面所の棚にレンズケースと一緒に眼医者の処方箋があったもんで、そこ行ってね。最近じゃ眼鏡も進化して度も随分出せるみたいだし、一番新しいデータを聞いて作ってもらっちゃったんだー」
「ナカムラさん、俺に気遣いは要らないと」
「同じデータでコンタクトレンズにしようかな、とも思ったけどさ、割と色々入り用みたいだし、目に直接入れるものだから、衛生面で差し入れ通るかちょっと怪しいしね」
「ナカムラさん、もう俺を放っておいてください。あなたの貴重な時間はもっと別のことに振り向けるべきだと思います」
「まぁまぁ、そんなつれない事ばかり言いなさんな。差し入れ手続きしとくから受け取って、使い勝手見ておいてよね」

***

「おっはよー。さすがに冷えるねえ、体調崩してない?」
「おはようございます。ええ、むしろ以前より
健康な気がします」
ナカムラはニッと笑い顔を作ると、嬉しそうにカガミを見た。
「どう、新しい眼鏡の掛け心地は?」
「はい、おかげさまで大変よく見えて助かっています。作業所では細かな仕事も割とよくあるので」
「そっかあー、良かったあ」
ナカムラはどことなくウキウキとした感じで、内ポケットから取り出したものをかけた。
「じゃーん」
「え、ナカムラさん、それは……」
「ふふー、おれもメガネ作っちゃったー」
「ナカムラさんも目が?」
「あー、これね……老眼鏡なんだよね〜」
カガミは一瞬絶句する。
「おれもさあ、四十過ぎて遂に来ちゃったみたいなんだよ。しばらく意地張って我慢してたけど仕事に支障出ちゃあ仕方ないよねえ。でもさ、カガミの顔がぼやけて見えるのも嫌だし、カガミの眼鏡作るついでに自分のも作ってもらっちゃった」
「ええと……でも、その眼鏡ナカムラさんに似合いますね」
「またまた〜、ムリに褒めなくていいのよ〜?」
眼鏡を下にずらし上目遣いにナカムラはカガミを見て笑った。
「いえ。俺も、ナカムラさんの顔をはっきり見ることができて、それがいちばん嬉しいです」
「そっかぁ。……ふふ、おそろいだね」
「そうですね」
カガミも少し微笑んで言った。

「ありがとうございます。ナカムラさん」
「うん」

「メリークリスマス、カガミ。」

眼鏡

ナカムラ カガミ

サザンテラスでの一件がひと段落ついて、カガミが漸くおれの話にぽつぽつと返事をするようになってきた頃、収監されて以来初めて、カガミの方から突然切り出した。
「ナカムラさん、あの」
「ん、何?」おれはちょっとびっくりして、でも努めて顔に出ないようにしながら返す。
「その...こんな事をお願いできた義理ではないのですが」
「今さらなに遠慮してんの、言ってごらんよ」
「俺の部屋から、俺の眼鏡を持ってきてはいただけないでしょうか?」
「へ?メガネ?」
「はい」
「カガミって眼鏡かけてたっけ?」
言いながらいやそんなはずはないよな、かけてるとこ見たことないしなーと思う。
「いえ。でも俺コンタクトレンズ入れてたんです」
「へええ、そうだったんだ!いやぁ気付かなかったなー近眼?」
「はい、両眼コンマ1も無いです」
「うっわーずいぶん悪いんだ!ふふ、勉強のし過ぎじゃないの?」
「いや、そんな。小学生までは良かったんですが、中学に上がってから急にみるみる悪くなって」
「じゃ、中学生時代はメガネっ子だったのかな?」
「あ、そうですね。ずっと眼鏡だったのですが、大学受験の頃にはもう悪すぎて、眼鏡では視力がうまく調整できないと言われ、コンタクトレンズを勧められたんです」
「えっ、じゃあ眼鏡持ってきても度が合わなくなってるんじゃ」
「ええ、でもそこそこ見えるので、寝る前とかは使っていました」
「なるほどねえ…あっ、いまどうしてんの?レンズ入れてんの?」
「いえ、俺のは2週間交換タイプだったので…」
「あっりゃー、じゃあすごい不便じゃない!眼鏡よりコンタクトレンズ持ってこなきゃ。あ、もう切らしてるのか。どこのメーカー?買ってきてやるよ」
「俺は眼鏡でいいです」
「どうして?コンタクトの方がよく見えるでしょーおまえ読書好きだって言ってたもんな、読みたい本も言えば持ってきてやるからさ」
「ナカムラさん、俺は今、俺が生活するためだけに、使い捨てや消耗品が必要な道具を持ち続ける事に酷く抵抗があるんです。できるだけ簡素な、物を消費しない方法をとりたいんです。とはいえ、目が見えなくては何もできない。ですので、眼鏡を持ってきていただきたいと思って」
「なるほどねぇ...え、ちょっと待って、収監されてから結構な日にちが経ってるよね?よく見えないままガマンしてたの?ずーっと?」
「はい。でも仕方ないです」
「は」
「今も、こんなことお願いすべきでは無かったかもしれないと後悔し始めています。俺のためにほかのだれかを煩わせるなんて、それも、ナカムラさんに頼むなんて。あれほどひどい裏切りと迷惑を重ねておきながら、この上頼みごとをするなんて、俺は」
「ハーイハイハイ、ストップストーップ!」
「え」
「……カガミ、いいか、ふさわしくないとか煩わせるとか迷惑とか、今後禁止な」
「え、でも」
「とりあえずいいよ、おれのわがままってことで良いからさ、そっちの方へぐいぐい考えるの止めようよ。すぐには難しいかもしれないけど、おれが面会に来ている間だけでもさ……ね?」
「わかりました。……すみません」
「明日にでも、カガミの眼鏡持ってくるねー。いやあ楽しみだねぇカガミのメガネ姿」
「いや、楽しみにされても」
「だってさ、おれ、おまえの事よく知ってるつもりでいたけど、実は知らない事すごーく多かったんだよなあ。これからどんどん教えてよ。いっぱい、カガミのこと話してよ」
「はい、でもあまりナカムラさんの時間を俺のために食い潰させては」
「約束だよ」
「……はい」

***

さあ、カガミの眼鏡を探しにいこう。
ひとつひとつ、拾い上げていけたらいいね。

 

あとかた 後日譚

ナカムラ

「あの爆発には肝が冷えたな」

ナカムラが自室の冷蔵庫から発見され、直後に部屋が炎上した事件の数日後、二人は再び検分に焼け焦げた部屋に入った。

「あーあ、見る影もないねえ」

「やはりナカムラの死体は発見されなかったそうだな」

先日、ナカムラの体が転がり出た辺りを見下ろしながら彼は言った。

「まさか、あの状態から何処かへ移動したとは考えにくいが……奴の痕跡が何もない、というのも腑に落ちんな」

「いや、炎で焼けてあとは爆風で四散したんじゃないのか?こんな現場のあり様じゃ見つけるのは無理だろう」

「いや、」

と言いさして、かつての同僚は口をつぐむ。

おまえ、こんな茶番を打って、いったい何処へ逃げようというんだ。何をしようと企んでいるんだ?

あいつがカガミに望みをかけていたのは誰の目にも明らかだった。その入れ込みようは傍目に異様なほどで、だが周囲の人間は、それだけ後輩であり上司であるエリート警視に期待していたのだろう、位に考えていた。

しかし、彼にはナカムラの目が気になっていた。
猫背で頭を低くしながら上目遣いで相手の顔を見上げるその仕草は、別にカガミに対してのみ向けられていたわけではない。
だが、あの目の光は尋常ではなかった。無造作に垂れ下がった前髪の奥で、不釣り合いに大きな目が、カガミを見る時だけは。すがるような、試すような、崇めるような、蔑むような、誘うような、蹂躙するような。

「……やはり、あのまま遺体は焼失したんだろうか」
「?そりゃそうだろう、どうした、随分こだわってるようじゃないか」
「いや、別にどうという事ではないんだが」

確かにそこまで入れ込んでいる相手が犯罪者となり死刑執行されたら、それに自分の身内が全くいないとしたら、生き延びることにそこまで執着するだろうか?
もういい、と思うのではないか?

ならばやはり、これ以上あいつを探し続けるのは無駄だろう。
万が一逃げたとしても、あとは死に場所を探すくらいだろう。

「帰るか」
「ああ、戻って報告書まとめて終わりだな」

視界の隅に高熱でひしゃげた眼鏡のフレームのようなものがかすめる。
……あんなものは、あの日この部屋からは出てこなかったはずだが。
だが、

「もう、いいさ」

つぶやきに頭をかしげる相棒と共に、彼らはまだ若干熱のこもった部屋を去っていった。