zencro’s diary

乱╲(・ω・)/歩 ╲(・ω・)/奇╲(・ω・)/譚

夜の蝶 続

「帰るのは、もう少し後…にしませんか」
ナカムラはおや、と言うように振り返る。ナカムラと目が合うと、カガミは戸惑ったように目をそらした。
ふうん、とナカムラは笑って目を伏せた。「飲み足りない?」と理由をつけてやる。
(ああそうだ、そう言えばいいのか)というように目を瞬かせて「は、はい!」とカガミは答えた。
しかしなあ、と顔を上げ通りを見回す。「もう、面倒だからそこ入っちゃおっか」
ナカムラが指さす方角を見てカガミはぎょっとした。「ホ、ホテル!?」
「だってさ、これから飲み直したら確実に終電のがすよぉ。だったらさ、酒買って持ち込むかルームサービスとかで部屋でゆっくり飲んで、そのまま泊まっちゃえば楽じゃない」若干裏返った声に気付かぬ素振りで、ナカムラは答える。
「は…はぁ、しかしそれはあまりに…」
「はは、そんな不真面目な行動はカガミちゃんには向かないかな~」
「い、いやそんな…でも」
「ふぅむ…じゃあさ、ウチくる?遅くなったら泊まっちゃえばいいし」

そこそこ混み合う電車の中で、仲良く並んで吊革につかまりナカムラ宅の最寄り駅へと向かう。そして、途中のコンビニで酒やつまみうを物色。
「カガミは肉系が好きだよねえ。焼き鳥買っていこうか、あと乾きもの、っと」「私は何でも」「よし、こんなもんかなーウチにも何かしらあったと思うしねー」
古い木造アパートの二階に、ナカムラの部屋はあった。
「ちらかってるけどまあ男のひとり住まいだからごめんねー」「おじゃま、します」
「えっとー」冷蔵庫の中を覗き込みながら聞いた。「肉じゃが、好き?」「は、好きです」「よし」

「じゃあ飲もう!カンパーイ!」

「…あの、ナカムラさん」二人がひととおりつまみも平らげたころ、カガミが切り出した。
「なに?あ、肉じゃがどうだった?」「美味かったです!…妹が作るのと味が近い気がします」「そっか、おれも甘めの味付けわりと好きでねーよかったー」「あの…」「あぁごめんごめん。なに?」
「今夜の…その…」
「キス?」
ぼっ、と音がしたかと思うほどの絶妙なタイミングでカガミの顔が朱に染まる。「い、あ、その…」あたふたと、二人しかいない部屋で周りを見回す。「は、はい…あれって」
「ごめんね?」
「(なんで?謝るんだ)いえ、その、はい…」何をどう言うべきかわからず混乱する。
「君って女の子はキョーミの対象じゃないのかなって思ったらさ、つい、ねー。ま、冗談だから気にしないで」
「冗談…ですか」そんな。
その声の震えにハッとしたナカムラは、おそるおそる尋ねた。
「え、カガミ?もしかして君…キス、初めてだった!?」
「あ…」それを聞いた途端、カガミの両眼からぼろっ、と涙があふれ出す。
それを見て、ナカムラは今までの酔いが一気にさめて真顔になった。「ごめん!」
「うっ…えっ…」涙とともにこんがらがった感情が一気に襲い、赤ん坊のように自分を抑えられないカガミ。それを見てナカムラの罪悪感は一層つのった。
「…って、いやもう今夜はおれセクハラって訴えられても仕方ないなー」ナカムラは正座したかと思うといきなりカガミに向かって土下座する。「悪かった!赦してください、このとーり!」
目の前で畳に頭をこすりつけた先輩を見て、あっけにとられた。
「ナカムラさん、頭を上げてください、俺は別に」
ゆらりと姿勢を起こしたが、ナカムラはカガミの顔をとても見られない。
「…カガミ、もう帰りな。タクシー呼ぶからさ…わるかったな、人事に訴えていいからね」ナカムラは携帯を開いて番号を押し始めた。
「そんなこと…できません」
「…そうだよな。ごめん」呼び出し音を聞きながらナカムラはぼそりと答えた。
「あの、ナカムラさん」鼻をすすって、あわててハンカチで顔をぬぐう。「もう一度、してください」
携帯を耳にあてたまま一瞬固まるナカムラ。「へ?」ギギギ、と音がするように首をまわしカガミを見た。「なんて?」
「もう一度、キスしてください」頬を染めながらも、正面からナカムラの顔を見ながらカガミははっきり言った。

「確かめたいんです」

夜の蝶

琥珀色のアルコール、華やかな香水の香り。

「またねー、刑事さんたちぃー」きゃあきゃあ嬌声を浴びつつナカムラたちは外に出た。
湿気をたっぷり含む夜風が二人の体を包む。
「カガミちゃん、こういうとこは嫌いだった?ほとんど口開かなかったねえ」
「慣れてないだけですよ。…いえ、でもそうですね、あまり好きになれそうにありません」
「もっと、上品なとこが良かったかな~でもいい子なんだよあの娘たち」
「熱心に職務に励んでいることは認めますよ」
機嫌悪いなぁ。
「ふぅん、なるほどねえ…。あのさ、カガミ」
ナカムラは声を落として、周りに聞かれないように話をしようというような仕草で口元に手をかざす。
「は、はい?」
カガミは身をかがめ、猫背のナカムラの方へ頭を寄せる。
「うん、あのさ」
不意にナカムラが顔を上げた。
「え」
油断しきった唇が、ナカムラの唇に塞がれる。
ひんやりと湿った感触に抵抗することも思い浮かばず、されるがままに。
「…君には、こっちなのかなぁ」
はっ、といつの間にか閉じていた目を開くと、長めの前髪の裏で、うわめ遣いの瞳が悪戯っぽくカガミを見ている。
「あ…あの」
「さ。今日はもうおひらきにしようねぇ」
アルコールの残り香を唇に感じながら、カガミは目の前で柔らかく笑う先輩を見つめ続けた。
今この時間がただ流れ去ってしまうのは、無性に厭だと感じながら。

海開き

カーテンを薄く開け太陽の位置を窺ったカガミはそのままの姿勢で呟いた。「…なぜ俺を助けたんですか」「言ったでしょ、昔の経験とおまえが残してった気持ちがシンクロしたんだって」傍らでごろり寝返りを打ってナカムラが天井を仰ぐ。「俺みたいな若造の言ったことがあなたの長年の生き方に影響を及ぼすなんてあり得ますか?」「生きた年数なんて関係ないよ…よっこいしょ」上掛けをはねて腰を抑えながら大儀そうに起き上がる。「いや、体の回復力には大いに関係あるなぁ…いてて」腰かけ床を見下ろし、ふう、と息をついた。向かいのテレビで、猛暑の折海水浴に興じる人々の様子が映し出されている。「…なぁ海行こうか」「人が大勢いて危険ですよ」「混雑に紛れるのもいいんだけどね、木を隠すなら森っていうし。でもまあ、人が来ないいい穴場知ってんだよ」
「な。海、行こう」「…海、嫌いなくせに」

ドーナツ

ドーナツが食べたいと思った。
良い天気の日、海をのぞむ芝生に両脚を投げ出して。
青い空には白い雲が悠然と流れ、気持ち良い風が吹いている。
海では豪華客船や遊覧船がゆっくり行きかい、たまにぼーっと汽笛が鳴る。

気が付けば、カバンの中には気まぐれに買い求めたコーヒーとシナモンドーナツが入ってる。
がさごそそれらをとりだして、シナモンドーナツをがぶりとかじる。
そして思い出したように飲み頃になったコーヒーをちびちび。

気が付けば、となりにカガミがいて
嬉しそうにドーナツをほおばっている。
「嬉しそうだなぁ」
「はい」こっちを見て、にこにこ笑いながらまたかじる。
「よっぽどドーナツが好きなんだねぇ」と言ってみる。
「ドーナツは大好きですけど」カガミはごくんとミルクコーヒーで流しこむ。
「ナカムラさんとこうしてるのが嬉しくて」
そしてまたがぶりとかじる。
「ここ、気持ちいいですね」
「でしょ、お気に入りなんだ」

また、汽笛がボーッと鳴った。はっとカガミが前方を見る。
「あ、トキコが呼んでる」
「そーかぁ」
「すみません、行かないと」
「うん」
カガミはくしゃくしゃとドーナツの入っていた紙袋を丸めながら立ち上がり、海の方へ走っていった。

また汽笛が鳴り、となりを風が吹きぬけた。
ドーナツが食べたいと思った。
梅雨になっちまう前に。

夜半の月

「今日も暑かったですねぇ」「ええ、とても五月とは思えない陽気でしたね」
「カガミ警視、どうですこのあと」杯をくいとあおる仕草をするナカムラに、カガミは「またですか、ナカムラさん」と答える。
「そんな~また、だなんてつれないこといわないで行きましょうよ。そうだ、トキコさん二十歳になったんでしょ?もうお酒飲めますねえ」
「ナカムラさん、トキコを夜の飲み屋街に連れ出すなんてとんでもないことです」
「またまたぁ。お友達との付き合いもあるでしょーに」
「そのようなときは私が付き添います」
「(うはーシスコン)」
「何か言いました?」
「いえいえ~。ですがね、いずれ妹さんエスコートするならいろんな場所みて良い店を見極めないとですね、カガミ警視」
さあさ、ほらほら、とせかすナカムラにひっぱられ、きょうも新宿の夜の街に繰り出す二人だった。
その夜はいつにもましてどの店も男女のカップルだらけで、カガミとナカムラの二人はどこか場違いな感じだった。
「あらー、わたしらなんだか浮いてますね」
「そうですね…出ましょうか」
「うーん、今日はどこもこんな感じみたいだったし、気づかないフリしちゃいましょっか」
カウンター奥に身をひそめるようにちょこんと座って、めいめいの飲み物をちびちびやり始めた。
しばらくして、すこし酔いがまわった頭をさまそうとカガミは背後をぐるりと見回した。が、はっと身を強張らせてまたカウンターの席に向き直った。
「…どうしました?指名手配犯でもいましたか」
「いっいえ」カガミは気を落ち着かせようと目の前のグラスの水割りをあおり、あわてて飲み込んだせいでむせた。「ああああ、だいじょうぶですかあ」背中をさするナカムラに。けほけほ言いながらカガミはわびた。「は、はい、すみません」
「なにー?昔の彼女でもいたのかなー?」
「違いますよ…」「じゃあ、なによ」「……」
なんなんだよとナカムラが今カガミが見た方向を盗み見ると、店内の暗さに乗じて臆面もなくいちゃつくカップルがいた。ははぁん、と思ったナカムラはカガミに言った。
「カガミ警視も純情だなあ」「はい?」「キス目撃くらいでそんな赤くなっちゃって」「えっ、赤くなってますか?」「ちょびっとねー、まあ飲んでるんだから少しくらいしょうがないでしょ」
酒が入ってかつての口調に戻っていたナカムラは、上司でなくひと回り年下の後輩を見る目でどぎまぎしているカガミを眺める。「かわいーねぇカガミちゃん」
「からかわないでください、『カガミちゃん』はもう卒業じゃなかったんですか?」むっとした顔でカガミは背筋を伸ばしナカムラを見下ろしたが、赤みがさした頬でまるで迫力がない。
「おっ、これは失礼しましたカガミ警視ぃ」と言いつつも腕を伸ばし頭をなでてくるナカムラにカガミは「ナカムラさん、呑みすぎですよ」と手を払う。
「そーだなぁ、ちょっとまわってきたかなあ…」素直に手を引っ込め、空のグラスを灯りにかざして眩しそうに目を細め、タンとカウンターに置いた。「警視、そろそろ出ましょうか」
「…そうですね」

店のドアから狭い路地に出る。どんなに細い路地も大小さまざまな店がひしめき合う中で、この一角は再開発で夜はひっそりとしていた。
「ナカムラさん」前を行く猫背のワイシャツに声をかけた。「私はまだ半人前なんでしょうか」
「警視はよくやってますよ」「しかし」
一瞬の沈黙ののちナカムラは口元に笑みを浮かべて振り返った。
「…申し訳ありません、さっきは酔っ払って警視に失礼なことを言いましたね」
「改まらないでください。職務を離れた時くらいは、以前のように後輩として接してほしいと思っています」でも、とカガミは続けた。
「私は、未だに実感が持てないのです。私は、ほんとうに役に立てているんでしょうか」
ナカムラは黙って背を丸めている。
「私は人々の嘆きを少しでも減らせているのでしょうか」弱弱しい声でカガミは言葉をつづけた。
「なにか、ほかにもっと手立てを探すべきなのではないでしょうか、もっと他に別の」
「あたしらは絶対的な力を持っているわけじゃありません。できる範囲であきらめずがんばるしかないんですよ。警視はいっしょうけんめい力を尽くしているじゃないですか」ナカムラはカガミの顔を見上げ笑う。
「だいじょうぶ、警視はおれみたいになりませんよ」
「何を言うんですか。ナカムラさんは私の憧れです、ナカムラさんのようになりたいんです」
「カガミ警視、急ぎましょ。もう日付が変わりますよ」

しばらく二人は黙って夜道を急ぐ。そのさ中、ふとナカムラが立ち止まって呟いた。
「たまに『カガミちゃん』が欲しくなるんだよ」
「え」
「…あはは、気にしないで。ただの、酔っぱらいのたわごとです」

ナカムラは笑いを含ませそう言うと、月を仰いで目を閉じた。

チョコ

「おじゃまします、非番のところすみません」
ぺりぺりぺり
「?」
奥の六畳間でナカムラがちゃぶ台に向かって背を丸めていた。
「ナカムラさん」
「んー?」
ぺりぺりぺり
「何してるんです?」
「あ、これね」振り向いたナカムラの指先に銀色の小さな棒が光っている。
「フィンガーチョコだよ。きょう出先の菓子量販店で見かけてさ、懐かしくなって買って来ちゃったんだー」
「あ、なつかしい」
「お、知ってたか!おれ子供のころこれが大好きでさー」
「俺もです」
細長いケースの中から銀の棒を一つつまみ上げ、明かりにかざして眺める。
「クリスマスのような子供が多く集まる集会ののときよく配られて。銀色と金色の包み紙があって、たまに赤いのや青いのもあって、子供心に宝物遺みたいに貴重なお菓子に見えましたね…」
すこし夢見るような表情で、カガミは目の前の銀の紙に包まれたチョコを見つめた。
「わかるなー。また配られ方もさ、1,2本とかみみっちくてな。家ではこの手のおやつなんて出さなかったしね。イベントだけでもらえるお菓子、そりゃありがたみが増すよね」
笑いながら、またぺりぺりと銀紙を剥く。
カガミもご相伴にあずかろうとぺりぺり剥き、はがした銀紙をくず箱に入れようと中を見たらすでにそこにはこんもりとした銀紙の山。
「…ナカムラさん、いくら何でも食べ過ぎでは」
「へ?」
顔をあげたナカムラの口元や頬には、とけたチョコが付着していた。
「ああほら、」ちゃぶ台上のティッシュ箱から一枚抜き取り、顎に手を添えて拭きとってやる。チクチクする無精髭の感触が面白い。
「ぷふぇ」
されるまま口元を拭われ、きまり悪そうにへへ、と笑う。
「子供みたいだねえ」
「ナカムラさんが子供なら、俺は赤ん坊ですね」
「あー、おれのあと干支がぐるりと一回りしてやっとカガミが生まれたんだもんな」
「ナカムラさんと同い年でいっしょに子供時代を過ごしてみたかったですね」
「そうー?」
「きっと楽しいかと」
「そしたら子供のころからイケメンかつデキるカガミと比べられてしょんぼりして育ったかもなー」
「そんな」
「好きになる女の子かたっぱしからカガミ好きになっちゃってさ…きっとカガミ宛のラブレターを渡してくれって託されちゃったり…」
「ラブレター?」
「そうそう」
「もらったことありませんが」
「あら意外」
「俺、恋人どころか友人もいませんでしたから」
「へえ…ああ、両親居なくて忙しくしてたせいかぁ」
「確かにバイトと学業と剣道で手一杯でしたが、もともと友人や恋人をとりたてて欲しいと感じたことはなかったですね。まあ自分がそんなですから、向こうから寄ってくることもほとんどなかったですし」
「へぇー、そんなもんなの」
「妹がいれば、それでじゅうぶんです」
「あぁ…(シスコンめ」
「それに今はナカムラさんもいますし」
「あら~光栄、い?」

ぺろ

「ぷふぇ」
「チョコ、まだついてましたよ」そう言って舌をぺろりとのぞかせる。
「えっちょちょっとカガミ、」
「念いりにとりましょうね」
「ま、まってカガっ」


「甘い」
「…しょうがないでしょ」

なべて世はこともなし。

味噌汁

おいトキコ、こんなところで寝たら風邪ひくぞ。暖かくなってきたとはいえまだ夜は冷える。とくにおまえは冷えるとすぐ熱を出すたちだから。それに腹も壊しやすいからな。なんだ、今更恥ずかしがらなくたっていいじゃないか、本当の事だろ。……ほら、おきろってば。あまり困らせないでくれよ。え、だっこ?まったくしょうがないやつだな、わかったよ。ふふ、いくつになっても子供の時と変わらないな。変わったのは体重だけかな?はは、そう怒るなって。そら、持ち上げるぞ。よいしょっと。……あれ、ずいぶん軽いな。おれが体重なんて言ったからダイエットでもしてたか?悪かったよ、だがお前くらいの年頃は少しくらいふっくらしている方が可愛いものだぞ。それに最近デザインに根詰めて疲れていたろう。そうだ、だからこんなに痩せてしまって。おっと、わるいわるい、バランスを崩してしまった。大丈夫さ、落っことしたりしないよ。大事ないもうとだからな。……どうした、照れてるのか?本当の事だぞ。トキコは俺の、大事な大事ないもうとだからな。父さんや母さんが死んで、それでも俺たち二人きりでうまくやってきたよな。でも実際は俺、家の中の事みんなお前に押し付けてきたんだっけ。そうだったな、いままでごめんな。今も、友達と遊びに行ったりもせず勉強と家の中の事にかかりきりで。おまえがいてくれて俺はどんなに助かっていることか。けどな、もうそろそろ自分のしたいように自由にしてもいいんだぞ。勉強熱心なお前の事だ、家事から解放されればいままで逃していたコンクールの賞だってきっとつかむことができる。俺?俺は平気さ。自分の事くらい自分でできるよ。なんなら、味噌汁つくってみせようか。おまえの好きな、新玉ねぎの味噌汁だよ。心配するな、もうダシを入れ忘れることなんてないから。どうした、目なんか隠して。俺が作った味噌汁を見るのが怖いのか?はは、味噌入れ過ぎで泥水のようになったのなんてもうずいぶん前の事じゃないか。昔のことをあまり持ち出すんじゃないよ。こんなに体が冷え切って、待ってな、これからほんとに俺が熱い味噌汁を作ってやるから。……なあ、もういいかげん起きてくれよ。もう眼を開けておはようと言ってくれ、おやすみといってくれ、おかえりなさいといってくれ。おや、お前を抱き上げたらネクタイがよじれてしまったよ、お前の器用な手で絞めなおしてくれないかい?それに腕がしびれてきたぞ、そろそろ自分の足で立ってくれないか?

「カガミ警視……何、してるんですか」

ナカムラさん?ああ、妹が駄々こねてなかなか起きないんですよ。仕方ないやつです。……?どうかしましたか、顔色が悪いですよ。ああ、ナカムラさんもうたた寝して冷えてしまったんですね。いいですよ、これから私が味噌汁を作ってあげますから。そしたら、トキコもちゃんと起こして、三人で味噌汁のんであたたまりましょう。……またそんな顔をして。だいじょうぶです、私にだって味噌汁くらい作れますよ。


もう五月になると言っても、夜はまだ冷えますからね。

agony

汗でじとりとした手のひらの感触に総毛だつ
はなせはなせはなせはなせはなせはなせはなせはなせいやだはなせはなせはなせはなせはなせ
私に触れていいのはせかいでただひとりしかいない
それはだれにも侵すことのできない神聖でただしいことだとずっとずっと信じてた
だからなにかの間違いだ
私がこんな目にあうわけがない
そのはずなのに
なのに
ああなんていやらしいやつ
するり逃げ出せたと思わせておいてへらへら嗤いながら行く手を阻む
えじきをほうりなげては捕らえもてあそぶけだもののように
あばれて精魂つきはてるようすを眺めよろこんでいる
このけだものめ、けだもの、けだもの
はなせ
いやだ
しにたくないしにたくないしにたくない
どうしてこんな目にあうのだろう
どうしてたすけがこないのだろう
どうして
こどものころからずっと、わたしにふれてよいのはにいさんだけなはずなのに。

そうだきっと私がなにかとてもわるいことをしたのだ
とてもいけないつみをおかしたのだ
これはそのばつなのだ
だからこんなめにあうのだ
だからたすけがこないのだ
でも
しにたくないしにたくないしにたくないやっぱりしにたくないしにたくないしにたくないよ
どうかどうかわたしのつみをゆるしてください
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

ごめんなさい




にいさん

GW

検死結果を聞かせた後で、ミナミ検死官はカガミに、二十面相との橋渡しを申し出た。
自分は原初と繋がっている。この先は暗黒星に任せればよいのだ、と。
警視庁所属の検死官が二十面相と内通していたというのに、カガミは驚きも見せない。
むしろ彼自らが直接執行者になると言い、ミナミ検視官に、これから行う断罪行動についての協力を仰いだ。

「いいの…?そんなことしても、彼女は戻ってこないのよ?」
自分から誘っておきながらも、ミナミはカガミにそう尋ねた。
「そう言う君も、弟を喪いながらも今まで続けてきたのだろう?」
カガミは小柄な体を見下ろしながら低い声で答えた。
「俺の進むべきは、もうこの道しかありえない」

わかってる。
あんたはそうせずにはいられない。
いいわ、わたしが全てお膳立てしてあげる。
アケチ君の連絡係になったのがあんたの運の尽きね。
そう仕向けられていたとも知らずに、あんたは先触れになるのよ。
甘い断罪の蜜に群がり世界を覆いつくす二十面相の群れの先導者に。

わかっている。
俺は正義を謳う警察官を気取りながら、トキコを守ることすらできなかった。
俺はトキコに、誰かが悲しむのを少しでも減らしたい、と言った。
俺はそれを時間の許す限り為し続けなければならない。
法に依らず裁く者の存在を喧伝し、償いを知らぬ罪びとどもを狩らなければならない。

…警告してくれたのに済まない。俺は呑まれてしまった、堕ちてしまったよアケチ君。
ナカムラさん、滑稽でしょう。あなたが教え導いたカガミ警視は、若干十七歳の少年に付き従い前代未聞な警察の面汚しとなるんです。
二人を裏切る事になった、それがただ辛い。

トキコ、お前のくれたこのネクタイは穢らわしい返り血で汚れないように外しておくよ。
これから俺がすることをお前が見ずに済むのは、俺にとって微かな救いだ。

断罪の衣装と仮面を身につけるとともに俺は現二十面相へと羽化する。
そして、かつてカガミであったものを一片残らず喰らいつくしてしまうだろう。



「なんでこんなことしたんすか、カガミ警視」

我ながらなんと白々しいことをいうものだ、とナカムラは思った。

現二十面相になったといっても、その手で酸鼻極まる殺戮を重ねたとしても、目の前にいる男はあまりにも、あのカガミその人で。
この限りない可能性に満ちた若者を、長いこと傍にいたのに自分はみすみす地獄に堕としてしまった。
いや何よりも。
今はこいつの前に出るのが怖くて仕方がない。
何を言ってやればよいのかまるでわからない。
目の前には天をつく断崖がそびえているようで、途方に暮れるばかりだ。
ああほんとうにカガミちゃんのままでいればよかったのに、なんて考える。
おれなど役に立てそうな気もしない。
では、逃げるか?
断じて嫌だ。他の奴にこいつをゆだねるなんて絶対に。
でも、でも、と。
怯え、おろおろしながらみっともない姿を晒しながら。
ナカムラは、今日もカガミのいる部屋の扉の重いドアノブへ、おっかなびっくり手を伸ばすのだ。