zencro’s diary

乱歩奇譚SS

一服

「あのーカガミ警視、何かありました…?」
「は、何か、とは」
「いえね、言っちゃなんですが朝からずっと変ですよー、デスクの上のスマホじっと眺めちゃため息ついて、ときどきデスクに突っ伏してたり、会議の時間を間違えて遅れそうになるし」
「ははは、それいつもの係長みたいじゃないですかぁ」と向かい席の刑事が口を挟む。
「ははぁそういえばそうだねえ、わたしのおつむはユーウツな会議の時間とかさ、忘れるようにうまくできているから~…って、んもーキミ茶々入れるんじゃないの。」同僚にそう言い、ナカムラはまたカガミの方に向き直って顔を覗き込む。「…疲れがたまってるんじゃありません?今日はもうわたしらで何とかしますから、帰って休んだ方がいいですよ」
「いえ…大丈夫です、あの、…ちょっと離れてもらえませんか?」
「あ、こりゃすみません」近づけ過ぎた顔をパッと離し、きまり悪そうに笑う。
「ちょっと、ここ出て一服…あぁいや、自販機で飲み物でも買って一息つきましょ、警視」
促すナカムラの後をカガミもついていき、二人は屋外喫煙所へ続くドアの手前にある自販機コーナーにやってきた。
「さて、ここなら誰もいませんな。それでは」ついてきたカガミを振り返り、ナカムラは言った。
「この二・三日、ホント様子がおかしいんですよね。なんか心配事でも?妹さんとケンカ…なんてわけないかぁ」
「違います」
「じゃあ、どうしたんです?実はさっき、警視が入力していた報告書覗いちゃったんですが、ぜんぶひらがなばっかり打ってましたよ?」
「えっ?ほ、ほんとですか、戻ってすぐなおさないと…」慌てて戻ろうとするカガミ。とそこへ、

「気をつけーい!!!!!」

いきなりの号令が森閑とした廊下に響きわたった。
「はいぃぃっ!!」反射的に、思わず背筋をビシッと伸ばすカガミ。

「上に立つ者がなんというざまだ!言いたいコトあるならハッキリ言え――ッ!!」

「ハイッ、ナカムラさん付き合ってくださいっ!!」

「は?」

「…あ”」とっさに口をついて出た本心に一瞬の後気づいたカガミ、ザーッと血の気が引く音が聞こえる思いがした。あああ、勢いで言ってしまったぁーッ、告白してしまったッ…!

「付き合う?」
「は、はい、いえ、あの」
「いいけど」
「…え?えええっ!?」
「なんだー、なに言いにくそうにしてるのかと思えばそんなことかぁ、あははは―」
軽く笑い飛ばすナカムラに、いろいろ一気に思い巡らしまくってフラフラなカガミもつられて笑う。「は、はぁ…あははは…」
「で、どこ行くの?」
「え」
「だからぁ、おれに付き合ってほしいんでしょ?どこ行きたいの?」
「えっと…牛丼屋とか…」じゃない、誰もいない海辺とか、カスミソウゆれる野原とか、二人きり肩並べて、あわよくば手をつないで…それから…
「牛丼屋ぁ?またずいぶん近所だなぁ。なんだーそんな昼飯くらい気軽に誘ってよ…いや、誘ってくださり光栄でありますカガミ警視!」
「いや、…あの、二人だけの時は敬語は無しで…」
けっきょくこうなるのか、と嘆息しながら、「ぎゅーどん、ぎゅーどん♫」と楽し気に鼻歌を唄うナカムラに従って警視庁を出るカガミであった。

足猫

「きょうさ、うちで飲まない?」
「ナカムラさんの家ですか、でもご迷惑では」
「いや、ひとり住まいだし。うちなら時間気にしないで飲めるし、何なら泊まっちゃえばいいしさ。きょう妹さん留守なんでしょ」
長引いていた仕事もひと段落の上にあすは揃って非番の二人は、そんなわけでナカムラ宅へと向かった。

「おじゃまします…うわっ」
入るなりカガミは、ふわふわな茶色い物体が足元をすり抜けて空いたドアから入り込んできたのに驚き声をあげた。
「あー、まーたお前入って来ちゃったかぁ。ほらーお客さん家に上がれないだろ。よっこいしょ」ナカムラは茶色い毛玉を足元から抱き上げた。
「こいつ下の大家さんで飼ってる猫でさ、ちょくちょくうちに上がり込んでくるんだよね。あ、あがってあがって。最初に煮干しのかけらやっちゃったせいかなぁ。奥のこたつ電気つけるから、あたっててよ」
「ありがとうございます…ナカムラさん、猫は平気なんですね。犬は苦手と聞いていましたが」
「鰹節パック、まだあったかなあ…ああ、猫はね、子供のころから近所の猫と遊んでたしね、へーきなの」

「まずは、ビールでいいかなー、でも寒かったしやっぱ熱燗用意しよう」
「ナカムラさん、あまりお構いなく、途中で買ってきたビールと乾きもののつまみでいいじゃないですか」
「へへ、そうはイカの塩辛ですよカガミくん。こんなむさくるしいとこに呼んじゃったからにゃー。まあ待ってて、すぐだから」
言葉どおり手早く二品三品用意し、ふたりは熱燗で乾杯する。
「おつかれさま」「ナカムラさんもおつかれさまでした」

熱燗のあとさらにビールと酒杯を重ね、みぞれ混じりの雨降る夜は更けてゆく。ビールの追加を取りに立ったナカムラは、ふとカガミの足元に気付いた。
「あれ、まだ正座してたの?崩して楽にしなよー」
「いえ、失礼ですから」
「何言ってんの無礼講だよーほらほら、胡坐かけば」
「大丈夫です、剣道やっていて正座には慣れてますし」
「そうかぁ、ま楽にしてて」

だがそう言われて初めてカガミは足先の異変に気付いた。
(あれ?おかしいな…いつもと調子が)交差している両足の親指の上下を入れ替えてみる。(どうしたんだろう、ナカムラさんの部屋にお邪魔して、緊張したせいか?)が、今まで体験したことのない足指の違和感が次第に大きくなっていくような気がする。(まずいぞこのままじゃ…いざ立つとき力が足に入りそうにない…)少しずつ足をずらし動かしてみても思うようにいかない。(んん…っ)危機感を覚えたカガミが全神経を足先に集中させたその時である。
つんっ
「ひゃうっ!?」失禁しそうになるほどの衝撃がカガミの体を襲った。
「え?ええっ!?」
「ほらぁ、やっぱり足しびれてたんじゃない~」
「な、ナカムラさん…!」
「ほれ、崩して崩して」
「あっ、触らないでくださ…!んんっ…、ちょっと時間置けば治りますから」
「ほー…」ナカムラはにんまりとする。笑って細くなった目が意地悪そうに光るのを見てカガミは身の危険を感じた。
「…ナカムラさん?」うろたえながら、腕と尻で必死にじりじり後ずさる。
「カ~ガミちゃん、あっそっぼー♫」
深夜の木造モルタル二階建てに、悶絶するカガミの声が響き渡った。

「勘弁してくださいよナカムラさん!」
やがてしびれもおさまり、平静を取り戻しつつあるカガミは、涙目でナカムラを仰ぎ見てにらんだ。
「あっはは~あんまり反応良いからつい調子に乗っちゃったーごめんねぇ」
さすがに大人げないと思ったのか謝るナカムラ。
「わるかった、わるかった!お詫びにナカムラさん特性ドリンク作ってあげるから。これ飲んどけば、二日酔いの心配なっしんぐぅだよ~」
へたり込むカガミの背中をぽんぽん叩くと、ナカムラは機嫌よさそうに鼻歌を唄いながら台所へ向かった。
(まったく…とんだ失態だな…トキコには見せられん姿だ)
心の中でぼやきながら居ずまいを正し、またいつもの習性で何となく正座してしまう。
窓の外は真っ暗だが、サラサラいう音は止んだので、ああみぞれ雨はもう上がったのかななどとぼんやり思っていた時である。

「へあっ!?」
ふたたび足先に衝撃が走る。「~~~~ナカムラさんッ!」
「へ?いやおれ今度はなんもしてないよ?」
「あ、あれ?」

「にゃーん」
そのとき鳴き声がして、カガミの尻のあたりから、茶色い毛玉がはい出してきた。
「ね、猫ぉ…」
「あー、こいつが足の上通ったんだなーあはは」
猫は、再びへたり込んだカガミの膝に飛び乗る。かくして、近所にまたもや悲鳴が轟き渡ったのであった。


翌日、ナカムラが大家に叱られたのは、言うまでもない。

こたつ

「ただいまっと、ひゃあ寒い寒い~」
靴を脱ぐのももどかしく、ナカムラはドアを開けるとバタバタ室内に駆け込んだ。
「おかえりなさいナカムラさ…うわっ!」振り返ると同時にいきなり抱きついてきたナカムラに、カガミは目を白黒させる。
「わあー、カガミあったかいなあー!」「ちょっ、ナカムラさん!危ないです、離してください!」右手に持った包丁がナカムラの体に触れないように必死で体をよじる。
「だってさー、外すっごい寒かったんだよー?はー、あったけー!やっぱあれかね、カガミ夏生まれじゃん、11月生まれのおれより体温高めなんじゃないの?」
あいかわらずしがみついて話を続けるナカムラ。カガミはおっかなびっくり後ろへ右手をまわし包丁をまな板の上に置くと、ぶら下がるように抱きついているナカムラの肩をぐっとつかんで引き離し、そのまま半ば引きずるようにしてこたつへ誘導した。
「ちぇー、カガミつれねえなー」
「いま炊事中ですからこたつにあたっててください。あぁ、そのままじゃスーツがしわになりますから!着替えてからですよ、ナカムラさん」
「はぁーいはいはい」
「はいは一度でいいです」
「はーい、カガミはおっかないですねえ、ミィくん~」
ナカムラは、今度はこたつのそばで丸まっていた猫にすり寄り話しかける。
「なんだよー、逃げないで一緒にコタツに入ろうぜぇー」と、鬱陶しそうに腕から逃れようとする猫をぎゅうと抱きしめる。
いやそうな鳴き声を背後に聞きながら(ああ、毛がスーツに…あとでブラシかけなくちゃ)とカガミは心の中で思いため息を吐いた。

「…ナカムラさん、鍋の用意できましたのでこたつの上空けてください」
しばらくして声をかけたが、返事がない。
(また、こたつで寝ちゃったのかな)と部屋へ振り返ると、ナカムラの姿は見えず、猫だけが悠々とこたつ布団の上に丸まっている。
「あれ?ナカムラさん?」
鍋をガスコンロに戻しこたつのほうに近づいたが、ナカムラは忽然と姿を消して…
「えっ!?」いや、白いくつしたを履いた足の先が、こたつの布団からはみ出して見えた。
「~~~!ナカムラさんっ!!」
こたつ布団をばっとめくると、信じがたいことに頭からすっぽりこたつの中にはまりこんで寝ているナカムラの姿。
「ちょっと、だめですよ熱すぎてやけどしますよ!というか、それでよく息苦しくならないですね、ほら出てくださいナカムラさん!」
「うーーー」中で目を開けたナカムラは、さすがに熱かったのかもぞもぞこたつの下から這い出る。「ふいー、あつかっ…」
「当たり前ですッッッ!!!」
「うええ、ごめんー」
「どーしてそんな子供みたいなことするんですか~」
「だってさ、足だけ入っても腰が冷えるじゃん?で、寝そべって腹んとこまで入るよね」と再現して見せるナカムラ。
「そうすっと次は肩が寒くなって、肩まで潜ったらこんどは顔がつめたーくなってきて」そしてすっぽり頭まで布団にもぐってしまった。
「…ほらね、必然の流れでしょー?」
頭をひょこっと布団の外に出して、若干とくいそうにカガミを見上げる。
そんな無邪気な顔を見て、もう何も言う気力がなくなったカガミ。
「はいはい、わかりました…さあ、ごはんにしますから、こたつから出てくださいね」
「はぁい」

かくして、ようやくこたつの上に卓上コンロを置き、豆乳鍋を始めるふたり。
「おいしいねえ、とうふー」
「寒いときはやはり鍋が一番ですね」
(ナカムラさんて、以前からこんな子供っぽいとこ、あったかなあ?)
無精ひげの無邪気な笑顔をみつめながら、カガミは思った。
それが、自分のせいだとは考えもつかずに。

七草の春

1.

ひととおり掃除が済んで、今夜は何にしようかと冷蔵庫の扉に手をかけたとき、ドアで鍵を開ける音に続いて、「ただいまぁ…」とくたびれた声が聞こえてきた。
「おかえりなさい」と玄関に顔を向けたところで、おや?と壁の時計に目をやる。
「今日は早いですね」
「うん。なんかねー」スニーカーをのろのろ脱いだナカムラは、背後を通り過ぎコートも脱がずこたつにもぐり込んだ。あわててこたつのスイッチを入れようとそばによると、「ちょっとくらくらするんだよね。仕事になりそうもないんで、報告書あす回しにさせてもらって帰ってきちゃったー」と大儀そうにこたつの天板に頭を置く。
「風邪でしょうか?」
「んー…ひゃっ」ひんやりしたてのひらの感触にナカムラは身をすくませる。
「ちょっと、測ってみましょうか?体温計は…」
「あー、テレビの右の、いちばん上の引き出し…たぶん…」
「あった。ちょっと、失礼しますね」コートと上着を脱がせ、シャツのボタンを外して体温計を差し入れる。
ピピピ
「…熱はそれほど高くはないようですね」エアコンをつけ、ナカムラの体に半纏をかけた。「あったかいもの作りますので、食べたらゆっくり休んでください」半纏の重みだけで崩れそうな体を心配そうに見やりながら、台所に立つ。
「何にしようか…あ、そういえば」冷蔵庫の扉を開けて、パックされた野菜を取り出した。

トントントン コトコト
聞こえてくる台所の音に安らぎをおぼえるナカムラ。半纏の重みも心地よい。
「誰かいるっていいなぁ…」

「え、何か言いました?」
すでにナカムラは眠ったようだ。


「…ナカムラさん」
ためらいがちに肩を控えめに揺さぶる。
「うーんん…」ナカムラはうなり、「あ、寝ちゃってたか、ごめん…」
前髪の奥、うっすら眼を開けた。

カガミは思わず息をのむ。

このままずっと彼を閉じ込めてしまえたら

一瞬の後、危うさを覚えてハッと我に返ってナカムラの肩から手を放す。
「…起こしてすみません、ごはんできましたので」
土鍋を鍋敷きの上に置き、ゆっくりふたを開ける。ふわっと湯気が立った。
「わぁ、おかゆだー」
「けさスーパーに行ったら七草のパックが山積みになってて、買ってみました。本当は朝食べるものらしいですが、ちょうどよいかと思って」
「そういえば明日は、そっかぁ。嬉しいなー、おかゆ作ってもらうなんてすごい久しぶりだ」
ナカムラはよそってもらった椀からひとさじ口にする。
「あ、熱いので気をつけて」というのと「あちっ」とナカムラがいうのが重なった。
「すみません、すこし冷ましてから食べてください」
「あー大丈夫、へーきへーき」とすぐまたひとさじすくおうとする。
「ああ」思わずナカムラの手から椀とさじを奪い、すくったかゆにふうふうと息を吹きかけナカムラの口元へはこぶ。
「おいおい、子供じゃないんだしさ、」
ナカムラが不平を言うのを構わず、先のひと口を食べ終わったとみるとまたひとさじすくい、ふうふう。
「はい、どうぞ」
「もー」と言いつつ、すぐあきらめ、あーんと口を開ける。
ほどよい加減にさまされたかゆは思った以上に美味くて、椀はすぐに空になった。
「勝手に溶き卵入れてしまいましたけど」
「ああ、おいしいよ、ありがとう」
「もう一杯よそりますか?」
「うん。君も一緒に食べよ」
「はい…あちっ」
「あはは。ふうふうしてやろっか?」
「…平気です」「ほら、よこしなよー」「大丈夫ですってば」
「強情だなあ。おれよりずっと猫舌のくせに」
ナカムラは一瞬の隙をついて、ひょいとさじを奪う。
ふうふう、と吹きかけ「ほい、あーん」とさじを向けた。
「…あーん」結局、ナカムラには敵わない。

布団に埋もれて眠るナカムラ。はみ出た細い手首を布団の中に戻してやる。

いつまでも、元気でいてくれますように

起きている時よりもずっと儚く見える寝顔を眺めて、何処へともなくカガミは祈った。

2.

ナカムラは深夜ぱかっと目が開いた。突然眠気が飛び去ってしまったようだ。
夕方までのしんどさは消えて、ちょっと暖かすぎるふとんの重みを強く感じる。
そういえば、おれよく憶えてないんだけど、しんどくて早めにかえってからどしたっけ?
まずカガミにただいま言って、こたつに入って。カガミが心配して熱計ってくれて、そのあとウトウト寝ちゃって。そうそうカガミがごはん作ってくれて、おかゆをあーんって…

なにやってんの、おれ?

何だよ、いい年した男があーん、て。そんなの小さい子どもと親とかさ、恋人同士や新婚早々の夫婦くらいなもんだろ?

そう言いつつも、ナカムラの頭の中では恋人同士やら夫婦やらの単語がやたらぐるんぐるんまわり巡って、余計目が冴えてきてしまった。

まずいなあ、明日は万全な体調で職場行かないとまずいのに。

布団の中で何度も寝返りをうって、快適な体勢をとろうと頑張っていると、
「ナカムラさん、眠れないんですか?」と問いかけられた。声の方を向くと、カガミが身を起こしてこちらを見ている。
「悪い、起こしちゃったか」
「どこか辛いですか?熱が上がったのかな。待っててください、取ってきます、体温計」
「あ、いやいや待ってカガミ」あわててカガミの寝間着の裾を引っ張る。「あのさ」ナカムラはむくりと起き上がった。聞こうか聞くまいか、一瞬悩んで口を開く。
おかゆ食べた時の、あーん、て、やっぱ変だったよな」
「は?ああ晩御飯のときの」
「具合悪いせいもあったけど、カガミと長くいすぎて距離感おかしくなっちゃってたみたいだな、おれ。気持ち悪かったよな、ごめん」
「そんな、そもそも俺の方からしてましたし」
「カガミはさ、具合悪いおれに食べさしてくれるためだしね、ちょっとやりすぎ感はあるけど。でもねえ、おれみたいなのにあんなことされたらさ、正直なところ気色悪いでしょー」決まり悪そうに猫背になり目をそらすナカムラ。
「なんとかハラスメントみたいになっちゃうの嫌だからさ、おれが調子に乗ってたら、遠慮せず怒っていいからね」
「ナカムラさんの振る舞いをそんなふうに思ったこと、俺、無いです」きゅ、と寝間着のズボンを掴んでカガミは呟く。「ナカムラさんは、いやだったですか?俺にあーんされて」
「えっ、おれは」
「気持ち、悪かったですか?」
「いやぁ…」
カガミは、ぐいと顔を上げた。
「俺は、気持ち良かったです!」
「…は?」
「俺は、ナカムラさんから声かけられたり振り向かれたり、肩に手をかけられたり背中を押されたり、…頭を撫でられたり、手に触れられたりするのが、とても気持ちよくて好きです。あーん、ってしあうのも。ナカムラさんはどうですか?俺がこんなふうに思っていて、気持ち悪いですか?」
「うーん、ま、気持ち悪いってわけじゃ…」
あれ?確かにあーんされたとき面くらったけど、気恥ずかしいっていうか、こそばゆいっていうか、そういえばけっこう気分良かったよう…な?
「…すみません、俺も調子に乗りすぎました。ナカムラさん、とりあえず今はいったん熱計って休んでください」立ち上がり、カガミは着替え、パーカーを羽織った。
「え、カガミもう起きんの?」
「ちょっと走って、頭冷やしてきます」
ナカムラは思わず大声で引き止めた。
「待って!待って、あのさ、」驚いてカガミは足を止め振り返った。しかし引き止めたはいいものの後に続く言葉が思いつかない。だがふと、思いついた。
「なんか眠れそうになくてさ、よかったら少しの間、目の上にてのひら置いててくれないかなー」
「はあ、まぶたの上に、ですか?」
「そうそ、子供のころ、眠れないときは親によくそうしてもらってたんだ。けっこうよく効いたんだよ」
そう言って、再び布団に横になる。
「…では」カガミは枕もとにあぐらをかき、目を閉じたそのまぶたの上にてのひらをかぶせた。大きなてのひらにすっぽり覆いつくされ、細い顔は上半分ほとんど隠れてしまった。

やがて聞こえてくる静かな呼吸の音。
「眠ったのかな…」カガミはてのひらをどかそうとした。
が、突然手首をつかまれる。「うーん、もうちょっとー」
「ナカムラさん、眠っていなかったんですか?」
「うん、なんか寝ちゃうの勿体なくてさ」つかまれた手の指の間から、愉快そうな色の瞳が覗いている。「カガミの手、気持ちいいなー」
「えっ」
「おれも、カガミに触ってもらうの、すごく安心する。気持ち良いよー」ナカムラはそう言って笑みをこぼす。
「……」
「カガミ?」
「嬉しいです。ナカムラさんも、そうだなんて」
「でさ、もうすこしそこにいてくれる?」
「はい」カガミの表情は闇に紛れて見えないが、答える声は少し震えている。

夜明けには、まだ遠い。

聞き込み帰り、商店街を突っ切る途中。
シャッターを降ろしている店が多い中、ぽつんと小さな果物屋が開いていた。
年始まわりに買い求める客でもいるのだろうか、季節外れの果物を詰めた箱やかごが所狭しと並んでいる。その中で、瑞々しく鮮烈な赤が目を引いた。
苺か。
それを買い求めたのは真に、気まぐれからであった。
まあ、冬はビタミン不足になりがちだし。

「?ナカムラさん、その包みは」
カガミ警視が苺の袋に目を止めた。
「はぁ、署に戻る前に見かけたもので」
「へぇ、ナカムラさんが果物買ってくるなんてめずらしいなあ~」
「ひとつ下さいよ」
「あ、おれもおれも!」
「お前らなー、ひとパックしかないのに配ってたらあっという間になくなっちゃうでしょ!これはおうちに持ち帰りでございますよー」
なんだよー、けちー、などと笑いまじりにブーイングする同僚を尻目に、報告書をでっちあげてナカムラは一課を出た。

ブーッ、ブーッ
警視は振動するスマートフォンに目をやった。
「ナカムラさん?」
「警視、まだ勤務ですか?根詰めると体に触ると愚考しますがねえ」
ヘリくだった言葉を使いながらも、どこかヘラヘラした声が聞こえてきた。
「いやね、皆にはああ言ったもののやっぱ一人じゃ多すぎるんで、手伝ってもらえませんか?」
通話が終わり、やれやれというように溜息を吐いて、カガミ警視は帰り支度を始めた。

「や、警視お疲れさまであります!鍵、開いてるよー」
インターホンから聞こえる声に従い、ドアをあけて勝手知ったる部屋へ上がる。
「ナカムラさん、勤務中に私用の電話は控えていただきませんと」
「だって、おれは仕事中じゃないもんねー」
へへへと笑う部下に、こたつにあたりながら今日二つ目の溜息を吐く。
「ほらダメだって、ため息つくごとにしあわせが逃げるって言うよー?ま、足崩して召し上がれ」
ナカムラは洗いたての赤い苺を盛った皿をカガミの前に置いた。
「これは美味そうですね」
水滴をつけて光る赤い粒に目を輝かせ、ひょいとつまんでほおばる。
「あ…すみまひぇん、いただきまふ」食べる前の挨拶を忘れていたことに気付き慌てて言う。
「ははっ、そんなん良いから。好物でしょ、どんどん食べてー」
年若い上司を眺めて目を細め、きらきら赤い苺をつまんだ。口に運ぼうとして思いとどまる。
「カガミ、ほら」
「は?はい」
口に押し付けられて、そのままほおばるカガミ。
「カガミ」
「?」
「綺麗だね」
苺の赤より少し薄い唇に、ナカムラは軽く口づけて笑った。

初詣0

晴れた正月の昼近く。
プルルルルル……ガチャ
「ふあぁ、あーはいはいナカムラですー」
頭上にある携帯電話をつかみ、布団に引きずり込んで応答する。
「…はい?トキコさん!?あぁ、どーもどーも、あけましておめでとうございまぁす。へ?ええ、元日はわたしも休みですけど。…はぁ…はい、はい…じゃ、1時に。いやいや、そんな事は。初詣のお供、光栄至極であります!なぁんてね、あははは。はいはい、ではのちほど~」
いかにも名残惜し気に布団から這い出ると、ナカムラは冷え切った部屋の空気にブルルッと身を震わせ、まだぬくもりの残る布団を足で部屋の隅に寄せた。
「ひゃー、女の子からデートのお誘いだよ~?ナカムラさん、こまっちゃうなー!」
困ると独り言を言いつつ、結構うきうきとした気持ちで急ぎ身支度をととのえる。
身支度といっても、ハンガーにかけっぱなしのスーツにダッフルコート、足にはスニーカーのお馴染みのいでたちである。
鍵をかけカンカンとアパートの階段を駆け下り、いつもの駅を目指した。

やぁ、いい天気だねえ。今日は風も無いし日向はぽかぽかあったかいし、なかなかの初詣日和じゃないか。
「なっかむっらさーん、こっちこっちー!」兄貴と違ってストレートな髪をゆらし、ふわふわなコート姿で手を振る姿。快晴の空の下でも、そこだけより明るく照らされているように見える。
「や~、またせたかなぁ?」と問えば、「ううん、いまきたとこ!」と茶目っ気たっぷりに返す。
「まぶしーなー、いやぁ若いっていいねえ」
「やだぁ、ナカムラさん、おじいさんじゃないんだから~」
「…おいトキコ、失礼だぞ」突然むっつりした声で横やりが入った。
「あれ、カガミいたんだ?」
「いましたよ」
「にいさん何むくれてんのよ」「むくれてなんかいない」「うそ、家出る前からどよーんとしてるじゃない」
ナカムラはふたりを制して尋ねた。
「まあまあ。で、どこの神社行きたいの?」
「ナカムラさんの行きつけのとこ!」
「えー!?いっちゃなんだが超地味だよ?」
「いいんです、ナカムラさんが毎年お参りしている神社に行きたいの」
「ふぅん…カガミ、それでいいの?」
「妹がいいと言っているならそれでいいです」
「…カガミ、なんか怒ってる?」
「いいえべつに」いや絶対不機嫌だし。
「いいからいいから、さあしゅっぱぁつ!」トキコ嬢の涼やかな声を合図に三人は歩き出した。

毎年というか、実のところ行ったり行かなかったりであったが、近所の小さな神社は元日だけにそこそこ賑わっていた。といっても賽銭箱の周りに二三人、おみくじやお守り買い求める家族が四五人というところだが。
「シブくていい雰囲気ですねぇ、さ、にいさん」「ああ」
ナカムラはふたりが並んでお参りするのを眺める。美しい恋人達を描いた、一枚の絵のようだ。
「渋い、ねえ。物は言いようだなぁ」
ナカムラは陶然として呟く。

「ナカムラさん…?」「ナカムラさん、どうしたのぼうっとしちゃって」
「あ、ああ…お参り終わったか、ごめんごめん」
「疲れているんじゃない?貴重なお休みの日だもんね、ごめんなさい、突然呼び出して」
「いやいや、そんなことないって。じゃ、おみくじでも引こうかぁ」
「はーい!」彼女は小走りで売り場へ向かって行った。
「ん?どうしたカガミ」
妹について行こうとせず、じとっとその後ろ姿を眺めているカガミに気付き、ナカムラは声をかけた。
「ふたりとも、仲良いですね…」
「へっ?」
カガミはおどおどと、しかし明らかにナカムラを咎めでもするような目でじっと見ていた。
「ナカムラさん、もしかして妹を…その、好き、なんですか?」
「はぁあ?!」こいつ新年早々いったい何を言い出すんだ?
トキコが私以外の男にあんなに心ゆるして話すの、初めて見ました…正直に言ってください、二人は付き合っているんですか?」
「ちょちょっ、カガミなに言って」
「俺以外に、あんなに満面の笑みで…信じられない、ナカムラさん、いつの間に!?」
「あのな、カガミ」
「それに正月で休みは元日だけだから、初詣はトキコと兄妹だけで行こうか、それとも…ナカムラさんさえ、よければ…ナカムラさんと二人きりで…とか……
だんだん声が小さくなり消え入りそうになるカガミ。
ナカムラは呆気にとられた。「おまえね…」
「すみません」カガミは見るからにしょぼんとしている。
トキコとナカムラさんがあまりに打ち解けているので、置いてけぼりにされたように感じて…」

「にいさん、早く早く、なにしてるの?ナカムラさんもいっしょにおみくじ引きましょうよー!」
「あ、ああ、いま行くよ!」
妹に呼ばれたことで元気が出たのか、カガミは背をしゃきっと伸ばして、妹の方へ走って行った。取り残されたナカムラは、一瞬複雑な表情をしたが、すぐにいつものへらへら顔を貼り付けて兄妹の方へ歩き始める。

「まったくね……仕事じゃいつもふたり一緒だってのにねぇ」
誰にともなく、そう呟いて。

年の瀬

「カガミ、面会だ」
何度も読み返した文庫本から目を上げ、カガミは看守の方を見上げた。
「はい。申し訳ありませんがお断りしてください」
またか、という顔をして看守は遠ざかる。カガミは再びてもとの本に目を落とした。
(おいおい、まーた追い返すのかい、カガミくん)
思わぬ声に、驚いて本を取り落とす。表紙を上に開いたまま落ちた文庫を、カガミはハッと気づきあわてて拾い上げる。どうやら、ページは折れずどこも傷まなかったようだ。ホッとして息を吐く。
(なんだ、そんなに大事な本なのかい?)
「だって、これはナカムラさんが差し入れてくれた本だから」言ってすぐ、先程からこの声はいったいどこから聞こえてくるのだろうと辺りを見回した。
(わたしだよわ・た・し)
扉の方で、さっきカガミに面会の連絡をしにきた看守がこっちを見ていた。
「え?あ、あの」
(んもう、じれったいなぁ~)
看守は、がさっと紙袋を被る。
「!君は、影男か」
「そうそう、久しぶりだねえカガミくん」
「いったいどうやってここへ…ああ、変装して潜り込んだのか。何しに来た」
「そうそう、私に潜入不可能な場所は無いのだよ。いちおう怪盗を名乗っているのでねぇ、現怪人二十面相のカガミくん」いつしか独房の中に入り込んでいた影男は呑気な口調で答える。
「やめてくれないか、俺はたった一人の肉親も守れず、自分の職業に見切りをつけて生きる意味も喪った、ただ極刑を待つしかない犯罪者、敗残者だ」
「ふぅむ、そして君は足しげく通う先輩刑事の面会も断り続けている」
「もう、あの人は俺に関わらない方がいいんだ。望みの無い種子に自分の貴重な時間を費やして、自分の人生をこれ以上台無しにすることは無いんだ」
「なるほど。君ももう未練はないのだね?まだ相当その本に執着しているようだけど」
「この本はもう俺の汚れた手が触れてしまった。やめようとしたんだ、でも止められなかった、何度も何度も読んでしまった。今ではもう俺の体がこの本に染みついて、この本は俺の一部になってしまった、もうナカムラさんに返すことはできない。かと言って捨てることもできなかった」
未練が無い訳がなかった。生きている限り、カガミはナカムラへの執着を捨てる事などできない。ナカムラがカガミの蜘蛛の糸の端を掴んでいる限り、カガミの方から糸を手放すことなどできない。
「はやく、俺を見限ってくれればいいのに、あの人はいつまでたっても俺に寄り添おうとし続けて、俺を解放してくれない」俯き声を絞り出すように言いながら、カガミは文庫本を抱き締めた。
「カガミ」
急に聞こえてきた懐かしい声にビクリと肩を震わせて顔を上げる。
ああ、久しぶりに見る懐かしい姿、細身にだぶつくスーツ姿、胴を抱えて猫背の、長めの前髪から上目遣いに覗く両眼。「ナカムラさん…」
「本、大事にしてくれてありがとう」目の前の男はナカムラの姿で目を糸にして寂しそうに微笑む。「たまには、面会にも応じてくれよ」
カガミは口元が緩み、見開いた目から、のどの奥から、あたたかく切ない思いがほとばしりそうになった。
…いや、そんな。ナカムラさんであるはずないじゃないか。
「やめろ影男、すぐその変装を解いてここから出ていけ!」カガミは思いを振り切るように目を強くつむって頭を振り怒鳴る。あり得ないことなのにむくむく期待が膨らみ、うかうかと騙され悦んでしまいそうな自分が憎く、おぞましい。
「やれやれ」
残酷な男はあっさり紙袋を被りなおす。
「では、これだけ伝えておくよ。でないとアケチ君にかかと落としの上に水をぶっかけられるのでね。ナカムラ警部は職務をこなす傍ら、君の刑が軽くなるよう駆けずり回ってほとんど休息もとっていない。周りがいくら諭しても聞きやしないんだよ、昼も夜も寝ずに断罪に明け暮れてた君みたいにね」
カガミは胸の奥を締め付けられる思いがした。
「君が二十面相になったのは自分に責任があるんだ、と言ってね。君が面会に応じないのも、自分がふがいないせいだ、と」
「そんな…」
「もちろん、君が面会に応じるかどうかは誰にも強制はできない。今後も自分で考え選べばいい」いつのまにか影男は看守の姿に変わっていた。
「わたしも、大事な人を守れなかった過去があるしね。これ以上きみの不興をかうつもりはないよ」そう言って、看守は再び去っていった。


「や、ひさしぶり」
透明な壁の向こうに、やつれてひと回り小さくなった姿があった。
「寒くなったね。どう、元気だった?」
「…はい」
「やー、良かったなぁ、今日もまた断られちゃうかなって思ってたからさ。会いたくないほど嫌われちゃったかな―って」
会いたかった。
面と向かいあらためて自覚してしまう、会いたくない訳がないじゃないですか。でも、あなたも警察官なら犯罪を憎んでいるはずだ。そして俺は、何人も殺害した凶悪犯だ。俺が自分を憎んでいるように、あなたも俺を憎むでしょう?その筈でしょう?もう見放してください、突き放してくださいよ…ナカムラさん。

「顔見て安心したよ。いろいろ想像しちゃってさ、会いたい気持ちが強いばかりにおれの記憶にあるカガミが現実より美化されすぎちゃってんじゃないかーなんて。でもよかった~現実もちゃんとイケメンなカガミでさ!あはははー」
「…もう勘弁してください」
「カガミ?」
もう、だめだ。だから会わなければよかったのに。今日も断ればよかったのに。でも、休みなく疲れ切って、それでもここへ来て、何度断っても来てくれて、手間かけて面会の手続き何べんもして、その分体を休めればよいのに、やつれてしまって。そんなナカムラさんを俺は想像して、そんなナカムラさんの姿を確認したくて。
「おれにはあなたに会う資格なんて、とうに無いんです」
「カガミ」
「なんで、早く見限ってくれないんですか」
「……」
「俺は卑しい。今日だって、ナカムラさんが俺の事を心配して疲れ切っているのを確認したくて、それで面会を断れずにこうして会ってしまった。こんな俺に、もう時間を無駄にしないでください」
ああ、言ってしまった。カガミはナカムラと目を合わせていられず、顔を背けそのまま席を立とうとした。
「逃げるな、カガミ」
今までと一変し怒気を含んだ声に、振り返る。かつて銃を抜こうとするカガミをおしとどめた顔がそこにあった。
「わかったよ、お前は俺と会いたくない訳じゃなかったんだな。そうだよ、おれはこのまま何もしないでお前がずるずる刑死するなんてまっぴらだからさ、回避する可能性があるなら何でもするし寝ないで駆けずり回ったって構わないよ。これは、俺がそうしたいからしてるんだ。お前にどうこう言われる筋合いは無いよ」
「…だって、それじゃあまりに」
「この世はホントままならねえよなー。お前も、おれがいなけりゃもっと早くカタ付ける事が出来てたかもしれないよなー。でもおれはね、やっぱりお前と会えて、一緒に仕事して良かったと思ってしまうんだ。これからもお前と会いたいし、いろんな話がしたいよ。だから、資格とか見限ってくれなんて言わないでくれよ」
「なんで、そこまでするんですか」つい、尋ねてしまう。
「おれが今まで『仕方ない』って置いてきてしまった事を、もう一度見直したい、取り戻したい、と思ったんだ。それ、思い出させてくれたの、カガミなんだよ」

「…あの」
「うん」
「本を差し入れてくださって、ありがとうございます」
「ああ、カガミ読書好きだろ?また本持ってくるよ」
「あの、」
「うん」
「また、来ていただけますか」
「何度だって、来るよ」

何が起こっても時はかまわず進み、今年も同じように暮れて行く。
「来年もよろしくな、カガミ」
ナカムラが、また目を糸にして笑った。

食慾

ナカムラさん
ナカムラさん
ナカムラさん
よばれるたび背筋がぞくりとする、心臓が破れるかと思うほど鼓動する。

カガミちゃん
カガミくん
カガミ警視
言われるたび躰を巡る血流が、怒涛となって全身が火照る。

息が、あがる。
傍目に気づかれないようにするのに、精一杯。

よばないで、誘わないで
喰らいたくて仕方ない。


そして
今は、
この透明なアクリルの壁が、互いをようやく食慾から守る。

こうして顔を合わせるだけで精一杯。
なんて密度の高い蜜の時。

触れ合うことができたら途端に、あなたを、お前を、喰らい尽くしてしまうだろう。

冬至

曇天の寒空。
突っ切る公園のどんよりした色彩を眺めていると、時が止まり、皮膚にひんやりと沁みる冷たい空気に包まれたまま、一生が終わってしまうような、そんな気がしてくる。鬱々とした気分を吐き出すようにハアッと息を吐くと、体温が白い吐息となって放出されるのと引き換えに、冷たい空気が体の中に入ってきて、思わずぶるっと震え身を縮こませる。
俯いて「寒いなぁ」とひとりごちる。冬に寒いのは当たり前だし、言って何が変わるわけで無し。でも何か言わずにおれないのが哀しいよなあ、と思ったところで「そうですね」と相槌を打たれてビクッとした。
ああ、二人で歩いていたんだっけ。
いつの間にか前方にカガミの背があった。ぴんと背筋を伸ばしてさっそうと歩く奴の後ろで、背を丸めてとぼとぼ歩く自分は、周りから見れば若者を風よけにして寒さをしのごうとしているみみっちいおっさんにしか見えないよなあ、と思いちょっと笑い、「なんです?」と怪訝そうに振り返る顔を見上げ、寒さで強張った曖昧な笑い顔をつくった。
「カガミってさ、寒さ強そうだよね」と適当な言葉を返す。
「そうでも、ないですけど」ちょっと当惑したように言う。「でも確かに暑い夏よりは今の時期の方が好きかもしれません」
「へぇ、夏生まれなのにねぇ」
「ナカムラさんだって11月生まれなのに冬が苦手そうじゃないですか」
「うん、そういえばそうか…」と言ったとたんくしゃみが出た。一層体が冷えて、慌ててコートの襟を寄せる。「ああやだやだ、寒いし日も短いし。冬が好きだなんて犬くらいだよ、犬なんて嫌いだ」
「べつに寒いのは犬のせいではないですよ」
「はいはい、その通りで」おどけて、畏まった素振りをする。「犬はよろこび庭かけまわり、猫はこたつで丸くなる、っと。あー、こたつで熱燗やりたいなぁ」
「もうちょっとで署に着きますから。書類提出済めば今日は放免ですよ」
「はぁい」
話しながら、ずっと目の前の背を見ていた。眩しい陽光を体内にたっぷりと蓄積したような、夏生まれの背中。あったかそうだなぁ、と思った瞬間、クラッときて頭がカガミの背にぶつかった。
「え?…どうしました、ナカムラさん!」慌てた声、倒れこんだ先はアスファルトの地面ではなくカガミの腕の中で、うわーみっともねぇと思いつつ体の自由がきかない。
「や、ごめんな、さっきから体ゾクゾクしてさ、ちょーっと、座れるとこ、あるかな」
カガミに支えられながら近くのベンチまでなんとかたどり着き、どさりと座り込む。
「ちょっとすみません」額の冷たい感触に身をすくませて目を開くと、カガミの顔が視界を占領していて仰天した、が頭がぼんやりして訳もわからず、体も動かず、もうどうでもいいやと無理に動こうとするのをあきらめ体の力を抜く。
くっつけていた額を離すとカガミは言った。「やはり、熱がある。ナカムラさん、ここにいてはますます冷えます、辛いでしょうがなんとか署まで頑張れますか?」「…うん」支えられつつ、もう一度立ち上がろうとしたが、いったん頽れた体はなかなか思うようにいかず、再びベンチにへたり込んでしまった。
「どうしよう…そうだ」
どうするんだろーと無責任にぼうっとした頭で考えていたら、「ナカムラさん、私の首に腕を回して下さい」返事する間も無く腕を取られてカガミの首を抱えさせられ、次の瞬間、視界がグイと上昇した。
「えっ」という間も無く、横抱きの状態でそのままずんずん運ばれる。「うわわわー」
「すみません、もうすぐですから」
ずんずんずん
「いやそうじゃなくてこれいわゆるお姫様抱っこ」「ナカムラさんは軽いし背負うよりこっちの方が安定するかと」
ずんずんずんずん
…それ以上は口を開くのも大儀で、大人しくしていた。真っ直ぐ前方を見据える透明な表情が、ずいぶん頼もしくて、安心して目を閉じる。
カガミ、あったかいなぁ。
そのまま、署に着くなり医務室へ直行したのだが、翌日すでに署内中で話題になっていたのは言うまでもない。

そんな事もあったなぁ。
いつもの近道で公園を突っ切りながら思う。木々はほとんど葉を落とし数年前と同じ灰色の風景。
違うのは、前方を行く暖かい背中が無い事だ。

「だからさ、出てくるのを待っていたいんだ」
「代わりの担当が付いてるでしょう、俺を待たずとも」
「そうじゃなくてさ。しんどいとき支えてもらったし、こっちからも支えたいなって。ま、もっとも抱っこ、なんてのは無理だけどね〜」
間を隔てるアクリル板よりも、さらに硬質な顔に笑いかける。
冬至カボチャ差し入れといたから、気が向いたら食べてよ。じゃ、また」そう言って、面会室の席を立った。

今日は陰が最も極まる日、転じて太陽が再び輝きを取り戻して行く始まりの日。今は冷えきった背中でも、お日様の様な力強いあたたかさが、いつか、きっと戻るだろう。